三渓園(横浜市中区本牧)


「三溪園」は、生糸貿易により財を成した実業家 原三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開された。175,000㎡に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されている。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)

「三渓園」の秋は、その情趣をひときわ感じさせてくれる季節。『紅葉の古建築公開』では、重要文化財「聴秋閣」・「春草廬」と紅葉とが織りなす景色が堪能できる。なお、2020年に訪れた際は、企画展『臨春閣―建築の美と保存の技』、修理中の「臨春閣」に施された装飾の数々を観賞。~三渓園HPより転載掲載~ -2021.11.30/2020.12.04- 「三渓園」他建物の詳細は、桜🌸の時期に訪れた 「三渓園」‐桜- にてご紹介。

秋の三園みどころマップ

「正門門柱」

建築年:明治39(1906)年

開園時には、三渓自筆による「遊覧御随意(ゆうらんごずいい)」の表札が掲げられた。

「大池」と「旧燈明寺三重塔」

「旧燈明寺三重塔」

「睡蓮池」

鶴翔閣(旧原家住宅)<市指定有形文化財>


延べ床面積約950㎡と、三溪園にある歴史的建造物のなかでも際立って大きな規模を誇り、その名称は鶴が飛翔する印象の外観に由来するといわれている。明治35年(1902)に原三溪が自らの住まいとして建て、以後20年にわたる三溪園造成の足がかりとなったほか、横山大観や前田青邨といった日本画家たちが集い、滞在し絵を制作するなど、日本の近代文化の発展にも関わった文化サロンとしての役割も果たした場所。

御門 <横浜市指定有形文化財>


建築:江戸時代の宝暦5(1708)年 移築年:大正時代

京都・平安神宮近くにある西方寺から移築された江戸時代の門。原三溪が所有していた時代、一般に公開されていた外苑に対して、内苑はプライベートで使われていた庭園でした。原家の私的なエリアとして使用され一般の人は立ち入ることができませんでした。その入口として置かれた建物が子の御門です。戦前、この奥にある臨春閣は豊臣秀吉が京都に建てた桃山時代の聚楽第の建物とされ、「桃山御殿」と呼ばれていたため、この門も「桃山御門」の名で親しまれていました。~下記案内板より転載~

「御門」脇の紅葉

白雲邸 <横浜市指定有形文化財>


大正9年(1920)に原三溪が夫人と暮らすために建てた隠居所で、三溪自らの構想により同郷の大工・山田源市に造らせたもの。屋根を桧皮葺、庇を杮葺とし、室内は関西で一般的なサイズの京間畳を用いるなど、当時廊下で連結されていた臨春閣に合わせた造りとしている。吟味された材料と伝統工法に基づいた数寄屋造でありながら、イスとテーブルの使用を意識した談話室やトラス構造の屋根裏、電話室、浴室のシャワーといった、近代的な要素を和風建築へ導入する試みもみられる。

三溪記念館


企画展「臨春閣―建築の美と保存の技―」(2020.10/15~12/20)開催。三溪園を創設した原三溪は、当時、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構とされていた「臨春閣」を「桃山御殿」と呼び、秀吉ゆかりの美術工芸品で室内を装飾して日々の生活を楽しみました。この「臨春閣」では現在、約30年ぶりとなる屋根葺替工事を中心とした重要文化財建造物保存修理工事を行っています。屋内の欄間やそれに附属する色紙などを取外し、状況の芳しくない一部は修理を行いました。特に、壁に埋め込まれていた「板絵十二支図額」は類例がなく貴重な作品で、詳細な調査が行われました。本展ではこれらの美術工芸品の数々を、「臨春閣」内に戻す前に「三溪記念館」で特別に公開します。

壁に埋め込まれていた

「板絵十二支図額」

臨春閣 <重要文化財>


江戸時代はじめの慶安2年(1649)に、現在の和歌山県岩出市の紀ノ川沿いに建てられた紀州徳川家の別荘・巌出御殿と考えられている。その後、大阪市此花区春日出新田に移されていたものを明治39年(1906)に原三溪が譲り受け、11年をかけて念入りに配置を吟味し、大正6年(1917)に移築が完了した。

旧天端寺寿塔覆堂 <重要文化財>


建築年:桃山時代 天正19(1591)年 移築年:明治38(1905)年

豊臣秀吉によって造られた建物で、内部には秀吉の母・大政所の生前墓である寿塔が置かれていました。桃山時代らしい豪壮な彫刻の扉や柱などの部材には建築された当初には鮮やかな彩色が施されていましたが、現在は一部にその跡が残るのみとなっています。この建物があった天端寺という寺は、京都・大徳寺の中にありましたが、明治時代の初めに廃寺となり現在は存在していません。三溪園の内苑に最初に移築された建物です。~下記案内板より転載~

桃山時代らしい豪壮な彫刻や、柱とその上の組物などにはかつて鮮やかな彩色が施されていたが、現在は風化して一部に痕跡を残すのみとなっている。

豊臣氏の家紋「五七桐」

「旧天端寺寿塔覆堂」裏

いちょうの黄色が映えます♬

聴秋閣 <重要文化財>


建築年:江戸時代 元和9(1623)年 移築年:大正11(1922)年

徳川家光が将軍となるにあたり京都におもむいた際に二条城の中に建てられ、のちに家光の乳母の春日局に与えられたいわれる建物です。この建物の移築により三園は全園は完成となりました。三つの屋根を組み合わせた形状から移築前は「三笠閣」という名称でしたが、原三溪はこれを「聴秋閣」と改め、周辺を秋に紅葉を楽しむ場所としました。木製のタイルを敷き詰められた一段低い正面の入口は、舟遊びの際に水辺から直接上がり込むための空間と考えられています。~下記案内板より転載~

「聴秋閣」内部

「聴秋閣」奥の遊歩道から見た紅葉

金毛窟


原三溪の構想によって大正7年(1918)に建てられた、一畳台目、すなわち一畳と約4分の3の大きさの畳からなる極めて小さな茶室で、月華殿と連結されている。金毛窟の名前は、床柱に京都・大徳寺の三門・金毛閣の高欄の手すりの古材を用いていることにちなみます。 

月華殿 <重要文化財>


徳川家康が慶長8年(1603)に京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間であったと伝えられている。内部には、海北友松筆とされる障壁画や菊の透かし彫り欄間がみられる。三溪園へは大正7年(1918)に、京都・宇治の三室戸寺金蔵院から、付属していた茶室・現在の春草廬とともに移築された。

振り返ると「三重塔」が見えます!!

春草廬 <重要文化財>


織田信長の弟で茶人として知られる織田有楽の作とされる江戸時代初めごろの茶室で、もと宇治の三室戸寺金蔵院にあり三溪園への移築前は“九窓亭(くそうてい)”と呼ばれていた。三畳台目、すなわち3枚の畳と約4分の3の大きさの畳を合わせた小さな空間には、その名のとおり九つの窓が美しく構成されている。

「春草廬」内部

「海外門」

旧燈明寺三重塔 <重要文化財>


室町時代の康正3年(1457)に建てられた園内の建造物中、最も古い建物。「三溪園」へは大正3年(1914)に、現在の京都・木津川市の燈明寺から移築され、小高い丘に建てられたその姿は「三溪園」を象徴する存在となっている。現在、関東地方にある木造の塔では最古。

「三重塔」から下る階段から臨む「三渓園」

「かんかばし」

横笛庵


茅葺屋根の土間と栩葺き屋根の小間からなる、素朴ながら趣のある草庵風の建物で、その名前はかつて内部に置かれていた横笛の像にちなむ。

旧矢箆原家住宅 <重要文化財>


飛騨白川郷の一部、現在の高山市荘川町にあった、江戸時代後期の入母屋合掌造りの民家で、御母衣ダム建設の水没地域にあったため、昭和35年(1960)に三溪園に移築された。現存する合掌造りでは最大級の建物。屋内では、移築に合わせて蒐集された飛騨地方の民具が展示されているほか、囲炉裏では毎日火が焚かれている。

茅葺屋根の古民家

干し柿がマッチしている

山下公園通りと山下公園


「三渓園」からバスに乗って「中華街」へ遅いランチ。ランチの後、「山下公園」へちょっと寄りました!!

山下公園通りの黄色く色づくイチョウ並木は、「山下公園」に面して開港広場公園前から山下橋交差点まで続く。「山下公園」の氷川丸を覗くと…。

横浜マリンタワーとイチョウの黄葉

「氷川丸」と紅葉

バラも参加