安行散策 -紅葉-(埼玉県川口市安行)


"新日本歩く道紀行100選"の「植木のさと安行の緑・花卉をたどる道」へ。埼玉県高速鉄道新井宿駅から戸塚安行駅まで9km150分の散策路。自然林や山野草、植木畑の絶景が広がる、世界に轟く「植木のまち 安行」が満喫できるコース。紅葉の風景を求めてウォーキングを楽しんできました。-2020.11.24-

安行散策マップ

慈林寺(慈林薬師)宝厳院(川口市安行慈林)


慈林寺(慈林薬師)宝厳院は、医王山と号する真言宗智山派のお寺。當山は、元文4年(1739)の縁起によれば、天平13年(741)聖武天皇の勅願によって、光明皇后眼病平癒を祈るために行基菩薩が薬師仏を安置する薬師堂を建立したことが開創の起源とされています。その後、文徳天皇の代に再興し、清和天皇の代に寺領を拝領したとされている。この3人の天皇から勅願を受けたことから、「三勅願寺」とも称します。また、當山に現在伝わっている薬師仏は、慈覚大師円仁が一刀三礼して彫ったものと伝えられ、普段は秘仏とされている。 寛永19年(1642)には、徳川幕府より寺領30石の御朱印を薬師堂領として拝領し、中本寺として周辺に数多くの末寺を擁していた他、領家光音寺、朝日薬林寺の薬師と併せて当地周辺の三薬師と呼ばれていた。慈林寺は通称「慈林薬師」とも呼ばれ、古くから眼病平癒の信仰を集めてきた。

「仁王門」

石段16段先にある寺院山門。江戸時代元禄5年(1692年)に建立された。忿怒の形相で仏敵を払う守護神として仁王像が左右に配置されている。

「仁王像」

元禄五年(1692)、江戸馬喰町の佛師・市衛門彫ったものと伝えられる金剛力士。二神一体で、一体は口を開いた阿形、もう一体は口を閉じた吽形とする。2000年に川口市文化財に指定された。

「風神雷神像」

「仁王門」境内内側に平成5年に設置された「風神雷神像」。境内の内側をにらみ自然災害から、寺や地域を守る役割を担う。

「宝厳院本堂」

「慈林薬師堂」

行基菩薩が薬師仏を安置するために建立した慈林薬師の中心的なお堂。現在のお堂は平成17年に改築された。

「地蔵堂」

「鐘楼」

「弘法大師像」

「水子地蔵」

金剛寺(川口市安行吉岡)


当寺は曹洞宗に属し、山号を富雙山と称し、入間郡越生町龍隠寺(関三刹)の末寺である。室町時代の中頃、明応五年(1496)に、当時この地方を支配していた豪族中田安斎入道安行により開創された。この人物の名が、当地「あんぎょう」の地名になったと伝えられている。「縁起」によると、当時戦乱の世にて中田氏自身も多くの人々を殺傷し、その罪業に毎夜苦しんでいた。たまたま当地を行脚していた禅僧に出会い、その教えに従って吉岡の地に草庵を結び、金剛般若経をよりどころとして供養し、その苦しみから救われたという。この縁により仏門に帰依し、この地に伽藍を造営し、その禅僧(龍隠寺七世節庵良筠禅師)を開山とし、自らは開基となり、寺名は金剛経に求め「金剛寺」とし開創した。江戸時代に至ると、寛永十九年(1642)三代将軍家光より御朱印十石を賜わり、門派は十数ヵ寺に及んだ。堂宇は戦後縮小改築されたが、「山門」は約400年前に構築されたもので、桃山様式を取り入れた四足門で、市内最古の棟門である。また、墓地には県指定旧跡「安行苗木開発の祖 吉田権之丞の墓」がある。約200年前に当山十九世海牛禅師により始められた灸施寮は有名で、現在も「お灸の金剛寺」として広く人々に親しまれている。(境内掲示より)

「山門」

この山門は、木鼻の絵様、形式、手法などから江戸時代初期の建立と考えられます。門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右あわせて4本立てた典型的な一間一戸の「四脚門(よつあしもん)」です。屋根は切妻造りの茅葺、基壇上の自然玉石に円柱を配し、控柱は方柱、斗きょうは簡略化されていますが、反りのある化粧垂木、絵様付で実肘木、木鼻等の渦文は古式のもので、天井は鏡天井です。棟飾りは九条の棟押えと側面2本ずつの押えで、地域的な特色が見られます。山門の桁行は3.030m(10尺)、梁間は3.333m(11尺)、棟高は6.666m(22尺)、面積10.09㎡(3.056坪)を測ります。また、元は組もの部分が朱色、他は黒色の彩色が施されていたことから「金剛寺の黒門」と呼ばれていた。大正12年(1923)に発生した関東大震災の後、垂木を2本取替える修理を行い、その後、本堂の修理の際に左右の袖を取り外して現在の姿になっている。川口市指定有形文化財建造物。(川口市教育委員会掲示より)

「本堂」

「藤棚」

「鐘楼」

安行原の蛇造り(川口市安行原)


五穀豊穣・天下太平・無病息災などを祈願するため、約10メートルの長さの蛇を作る行事。毎年5月24日に行われ、わらで編んだ蛇はご神木のケヤキ(現在は矢倉)に1年間祀られる。


蛇の舌の部分にしっかりと結びつけられているのは、密蔵院の住職によって書かれた祈願文とのこと。

密蔵院(川口市安行原)


安行の高台に位置し、春は桜、秋は紅葉他四季折々の自然を楽しめる。特に安行桜のトンネルの参道はすばらしく、メディアにも度々取り上げられるほどの県内有数の桜のスポット。また武州川口七福神の大黒天様があり、武蔵国八十八ヶ所霊場87番札所になっている。安行桜が咲く2020.03.11に訪問、詳細は、 「密蔵院」 へ。

九重神社(川口市安行原)


大宮台地の先端部に位置し、久保山と呼ばれる丘に当社は鎮座している。この久保山は、その昔、平将門が砦を築いたという言い伝えがあるように、周囲の村々がよく見渡せ、当社境内の御嶽山に登れば筑波山や日光連山を一望することができる。また、境内には樹齢五百年以上のスダジイの大木が二本あり、市記念天然記念物になっている。『風土記稿』原村の項に「氷川社 本地十一面観音を安す、村の鎮守にて別に供免を附す」とあるように、当社は元来は氷川社といい、享保年間(1716-36)、境内の西に隣接する真言宗の密蔵院の中興第十六世法印栄尊が武蔵一宮氷川神社を勧請したことに始まると伝える。明治に入ると、神仏分離によって別当を離れ、原村の村社になったが、政府の合祀政策に従い、領家の神明社・慈林の氷川稲荷合社・藤八の菅原社・吉蔵の八幡社・北谷の稲荷社・花栗の稲荷社・苗塚の稲荷社・小山の氷川社という近隣の村社8社をはじめとした計32が当社に合祀された。そのため、当社は、村社が9社重なった神社ということから「九重神社」と改称した。太平洋戦争の敗戦により人心は混乱し、境内は浮浪者の塒と化し、昭和二十三年には失火により社殿が消失した。これを機に、氏子は心を一つに再建に励み、同二十六年十月十五日、現社殿を落成させた。(境内の掲示より)

「社殿」

「ご神木」

境内には、樹齢五百年以上のスダジイの大木が二本あり、大きく枝を広げている。川口市指定の保存樹木であり、内一本は、幹周りが6.5mもあり、記録されるシイの大木では埼玉県下第一の規模。

境内末社の「御嶽山」

安行で1番標高の高い場所で、海抜32m。晴れた日は筑波山や日光連山などを望める。

万葉植物苑/ふるさとの森(川口市安行領家)


「ふるさとの森」の中にある「万葉植物苑」。万葉集の句で詠まれている植物が植えられ、和歌を楽しみながら季節ごとの植物が鑑賞できる。各植物には和歌の解説看板が設置されている。

小林もみじ園(川口市安行領家)


「小林槭樹園(もみじえん)」は、江戸時代から続く、カエデ・モミジ専門の植木屋さん。3,000坪の敷地に400種が植えられている。ご好意によって一般開放(無料)されていて、自由に散策することができる。

興禅院(川口市安行領家)


「興禅院」は、曹洞宗の寺院で瑞龍山観音寺興禅院と号し、鳩ヶ谷市大字里の法性寺の末寺です。室町時代の天文15年(1546)の開創で、開山は助天当益大和尚(法性寺三世)といわれています。本尊は釈迦如来坐像で、『新編武蔵風土記稿』には恵心(源信)の作と記載されており、江戸時代の貞享4年(1687)に第六世住職心如椿牛大和尚の代に、旗本藤川氏によって寄進されたと伝えられています。当寺は何度か被災しており、現在の「本堂」は、大正9年(1920)に再建されました。境内には、関東郡代伊奈氏の重臣の墓所があります。また、「鐘楼」にはかっての富田氏寄進の梵鐘(二代目)が掛けられており、この鐘は音色が麗しく名鐘ととして親しまれていましたが、太平洋戦争時の供出の命により姿を消しました。現在の鐘は三代目となります。寺域は安行八景に選ばれており、春は桜、秋に黄、赤、白色の彼岸花、紅葉、他にアジサイ、シャクナゲなど、様々な季節ごとの花が見所となっています。また、本堂左の墓地内のスダジイの大木には、元禄年間のお地蔵様が根本に抱えられており、東側崖下の小さな泉には弁財天が祀られています。1月、5月、9月の9日に弁財天祭が行われます。~川口市教育委員会 境内案内板より~ 紅葉にはまだ早かったようです😢。

「山門」

「本堂」

「鐘楼」

「抱かれ地蔵」

墓地の中にあるスダジイの大木の根元に、包み込まれた石彫りの小さなお地蔵様がたたずんでいる。高さ30cmほどのお地蔵様は、木に優しく抱かれているようにも見えることから、いつしか「抱かれ地蔵」と呼ばれ、口コミやネットで存在を知って訪れた人々を和ませている。住職の話では「20~30年前に石屋さんがお地蔵様をスダジイのそばに動かしたところ、木が成長して取り囲んでしまったんですよ。いわれのようなものはないんです」とのこと。-朝日新聞DIGITAL 2018年4月8日記事より転載-

「弁財天堂」

【興禅院弁財天の由来】この弁財天堂は、瑞龍山興禅院付属のお堂として管理されている。弁財天がこの地にいつ頃勧請されたかは詳かではありませんが、寺伝によれば当寺四世の南巌龍昌大和尚は、諸堂宇と寺域の整備に尽力された名僧で、中興の祖と仰がれていることから寛文年間(1661~1672)頃に冷泉の傍らに小祠を建立したと思われます。当寺に所蔵されている寛政7年(1795)と同10年の記録に弁天講金云云とあり、以前から弁天講が成立していたことが分かります。弁財天は、インドでは古くから信仰され正しくは「大弁財天功徳天」と申します。始めは農業神として尊崇され五穀豊饒を願い、寿命増益、福徳円満の功徳を念じました。また、日本では音楽の神様としても広く信仰されてきました。また、この地には昔から白蛇の話や、大蛇にまつわる伝説が語り継がれております。~案内板から抜粋転載~

鳥居の前一対の「コマヘビ(狛蛇)」

「放生池」

「十三佛と千手観音菩薩」

「十三佛」

仏語。亡者の法事を修する初七日から三十三回忌まで一三回の追善供養に、本尊とする一三の仏と菩薩をいう。すなわち、不動秦広王(初七日)・釈迦初江王(二七日(ふたなぬか))・文殊宗帝王(三七日)・普賢五官王(四七日)・地蔵炎羅王(五七日)・彌勒変成王(六七日)・薬師太山王(七七日)・観音平等王(百か日)・勢至都市王(一周忌)・阿彌陀五道転輪王(三周忌)・阿閦蓮上王(七周忌)・大日抜苦王(十三回忌)・虚空蔵慈恩王(三十三回忌)の称。

陽射しがなく、他の佛はブレてしまいました💦

「千手観音菩薩」