長谷山 本土寺(千葉県松戸市平賀) -紅葉-


「長谷山本土寺」は、建治三年(1277)豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人弟子日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。本土寺は池上の「長栄山本門寺」、鎌倉の「長興山妙本寺」とともに「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹で、松戸地方における日蓮宗の教団活動の中心とされました。ここには日蓮直筆の書状をはじめとして、松戸市域の貴重な中世資料が数多く所蔵されています。近年においては境内の整備がなされ、「あじさい寺」として市民に親しまれています。~下記案内板より転載~ 紅葉の時期も「山もみじ」「大盃」、関東の気候に合うよう品種改良した「秋山紅」と呼ばれる三種類の紅葉、およそ千五百本が「本土寺」を紅く彩るとのことで出かけてみました♬。 -2021.11.24-

「仁王門」

間口三間半、奥行二間、木造瓦葺桜門式。参道の正面に「長谷山」の扁額を掲げた朱塗りの高楼。慶安年間(1648から1651)、日慧上人の発願による建築。階上には金色の千体佛が祀られている。

「仁王門」正面

「仁王門」を見上げ

「仁王門」脇の「実相閣」と紅葉

大数珠がかけられている

「仁王門」裏

「本土寺」境内案内図

「鐘楼」と「五重塔」

「五重塔」

平成三年に、日像菩薩六百五十遠忌記念として建立される。高さ18m、中にインドのネール首相より贈られた真仏舎利の一粒を納め、千体佛と共に祀られている。

「鐘楼」

二間四面、茅葺。梵鐘は建治四年(1278)の鋳造銘があり、県下第二の古鐘。昭和五十二年に国重要文化財に指定され、実物は宝物殿の中に保管されている。

「梵鐘」<国指定重要文化財>

建治四年(1278)鋳造のつり鐘で、県下で二番目に古く高さ130.7cm、径69.0cmで約700kgの重さがある。この鐘は文明14年(1482)本土寺十代住職日端のとき檀那の、設楽助太郎、大伴継長の協力を得て、求めたことが記されている。また、この鐘は初め印東庄六崎(佐倉市)の大福寺にあったことがわかり、製作者は上総国刑部郡(長生郡長柄町)の大工、大工臣兼守と記されており、長柄町は昔から鋳物や金銀細工が盛んなところでこの鐘は、千葉県の工芸の歴史を知るうえで貴重な存在となっている。~下記案内板より転載~

3段組で鋳上げられ、側面は上から上帯・乳の間・池の間・中帯・草の間・下帯に区別される。上帯には飛雲文が陽鋳され、乳は5段5列、下帯には唐草文が陽鋳されている。池の間の4区には各区に3個ずつ蓮華座と仏と僧名を納める円相が配され、当初は十二神将を表す梵字の種字が陽鋳されていたが、現在は削られて釈迦・上行菩薩・日蓮から日朗・日実以下歴代貫首の名が刻まれている。これは、この梵鐘が本土寺に移されたときに、毎日の鐘の音に託された願いが変わった事によるものと思われる。龍頭の向きと平行に2つの撞座があり、8葉単弁の蓮花が意匠されている。~千葉県HPより抜粋転載~

上記写真:千葉県HPより転載

「本堂」

間口八間、奥行十間、木造銅板葺、御本尊は一尊四士。慶安四年(1651)に小金城主一族の恵了院日修が息女の菩提を祈って造立したと記録されている。もともとは祖師堂であったが、明治十五年宗祖六百遠忌に場所を移し本堂とし、昭和五十二年宗祖七百遠忌に時に五間四面の拡大改造され今日に至る。

「秋山夫人の墓」

秋山夫人は甲斐武田一族である秋山虎康の娘で、15才で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または、下山の局と称され、家康の第五子万千代君を生んだ。万千代君は後に、武田信吉を名のり天正18年(1590)に、小金城三万石に封ぜられた。秋山夫人はその翌19年10月6日、小金で病死した。現在の墓石は信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)に建立したものである。~案内板より転載~

渡り廊下と紅葉

紅葉色のグラデーション

オレンジがかって鮮やか

「本堂」裏の小径

「菖蒲池」と「宝物殿」

「宝物殿」:間口三間、奥行四間。以前は三坪程の土蔵であったのを、宗祖六百五十遠忌の時に日真上人が発願し、 昭和五年に建造され、当山霊宝、什物、古文書など収められ、代表的なものとして宗祖真筆加判の御本尊、宗祖御真筆諸人御返事等御書、梵鐘など収められる。

「菖蒲池」と渡り廊下

「乳出の御霊水」

「日像菩薩誕生水」とも言われ、日像上人がお生まれになったとき、清水が湧き出て、それを産湯として使ったとされる。後に井戸とし、その水を飲むと病気が治り、たちまちに乳の出がよくなるという不思議なご利益により当時は参詣祈願の列が絶えなかった。またその井戸の脇には銀杏があり、乳が垂れたような枝が生え「乳出銀杏」と言われている。

「日像菩薩誕生水」の案内板

「像師堂」

この寺域は往古妙泉院と称せられ中世からは輪蔵院と改称、支院の一つであった。現在は当山に合併されており、京都開教の祖日像上人の「日像菩薩像」が祀られる。「日像菩薩誕生水」と合わせて「子安乳出の日像様」として信仰を集め、最盛期には参道まで祈願者の列をなした。

「地蔵堂」

別名"お願い地蔵"。約750年前に、沢に流れ着いたお地蔵様を祀るために建てられたというお堂。

「稲荷様」

「開運日像菩薩像」

「弁天池」

「弁天堂」

「弁天池」の中央の小島の厨子には弁財天が祀られている。また、池の裏手側には銭洗い弁天をお祀りしている。

「弁天堂」先の紅葉スポット

「妙朗堂」

間口三間半、奥行四間半、銅板葺。日朗上人の御母、妙朗尼を祀る。大正末期の建築で、昭和二十八年に現在の場所へ移築。

「瑞鳳門」

文政四年(1821)に建立。旧輪蔵院の門で、以前は現在の「像師堂」前にあったが移築される。当院第二十一世の日運師が建立したと記録される。

扁額"像輪誕生霊区"は

文政四年、六条本圀寺日運僧正の筆

「赤門」

「開山門」

本土寺最古即ち延慶三年(1310)の建物(創立丸柱のみ)。聖人より当山を預かった日傅上人は師を尊んで聖人の出入以外にはこの扉を開かなかったというゆかしいいわれから古来、「朗師門」と称する。

奥は「茶室」

「翁(松尾芭蕉)の碑」

翁(松尾芭蕉)の碑

この句碑は、江戸時代の文化元年(1804年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものです。正面には、この句碑を建立した今日庵元夢とその門人、可長、探翠、幾来、一鄒といった東葛地方の俳人達の名が見られます。ここに名を連ねる一鄒とは、本土寺第三十九世日浄上人のことです。本土寺ではしばしば「翁会」と称する句会が催され、小林一茶も参加しておりました。碑面には「御命講や油のような酒五升」のほかに、芭蕉忌にちなんだ一茶の「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句などもあります。松戸市教育委員会 ~下記案内板より転載~

御朱印