了仙寺 <国指定史跡> (静岡県下田市)


大阪夏の陣の時、目に病を持たれた徳川家康公は、家臣の勧めにより当時目の神様として崇められていた身延山久遠寺第十一世の行学院日朝上人に病気平癒の願をかけた。その祈願が成就したため、徳川政権安定の時に寺を建立することを約束。その後、寛永12年(1635年)に第2代下田奉行・今村伝四郎正長によって「了仙寺」が創建された。創建された「了仙寺」には、当時の幕府の将軍・徳川家光より朱印状によって領地が与えられ、家康公の祈願成就に奉じた。以降、歴代将軍から朱印状が下賜されている。従って、「了仙寺」の寺紋は、徳川家の紋である三つ葉葵。嘉年7年(1854年)日米和親条約が締結され、下田が開港、「了仙寺」は、ペリーと日本全権の交渉場所となり、日米下田条約が締結された。併設されている「宝物館」(MoBS黒船ミュージアム)にはペリー・黒船・異文化交流をテーマとした1000点を越える国内最大の黒船の原本資料が収蔵されている。

また、「了仙寺」は、全国で唯一の“アメリカジャスミン”の名所。5月中旬から下旬にかけて、1000株の“アメリカジャスミン”が境内を染め、あたり一帯がジャスミンの香りにつつまれる。 -2018.05.02-  下田の遠足は、首都圏・国内 遠足  伊豆Ⅰ下田(May.2018)

「山門」

<国指定史跡文化財> 了仙寺

「法順山 了仙寺 日蓮宗 寛永12年(1635)創建 開山 日朝

第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行 父・彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。本堂南側の基城の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四大伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられてる。嘉永7年(安政元年-1854)3月、神奈川県において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ、了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休憩所となった。なお、寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・金鋼製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。 下田市 ~下記案内板より抜粋転載~

「本堂」

間口5間奥行6間の寄棟造桟瓦葺の建物で昭和20年に一部は破壊されたがよく旧規を存してをり、幕府外交史上重要な史跡。扁額は「開国殿」。

本堂の両側の柱には、白文字で

「和親友好萬世掔」(左)

「日米締交法燈下」(右)

アメリカジャスミン

咲き始めは鮮やかな紫色で、次第に白へと変わっていくため、一本の木に紫、藤色、白の花が咲き乱れ、グラデーションを楽しめる。正式名は“匂い蕃茉莉”(ニオイバンマツリ)で、これは「香りのする外国産のジャスミン」という意味。

御朱印