円覚寺 (神奈川県鎌倉市山之内)


鎌倉時代後半の弘安5年(1282年)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により開山された。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていた。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、建立を発願された。「円覚寺」の伽藍は、鎌倉独特の谷戸(やと)と呼ばれる丘陵地が浸食されて出来た谷に沿って建てられている。「三門」を入り、「仏殿」、「方丈」へと徐々に登っていく配置は、この土地の高低差を生かした壮大な空間をつくりだしている。~円覚寺HPより抜粋転載~ -2019.12.28-

境内配置図

「総門」

山門(三門)<県重要文化財>

山門は三解脱(さんげだつ )"空(くう) ・無相(むそう) ・無願(むがん )"を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされています。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされています。現在の山門は、1785年(天明5年)、開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖禅寺」の扁額は、北条貞時の時代に伏見上皇(北条貞時の時代)より賜ったもの。楼上に十一面観音像、十二神将、十六羅漢が祀られている。~下記案内板より抜粋転載~

扁額

扁額「円覚興聖禅寺」のは、北条貞時の時代に伏見上皇(1265〜1317)より賜ったもの。

「仏殿」から見た「山門」

「仏殿」

円覚寺のご本尊である「宝冠迦如来」が祀られている。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したが、昭和39年(1964)に再建された。禅宗様式の七堂伽藍の中心に位置する建物。

「大光明寶殿」の扁額

後光厳 (ごとうごん)上皇から賜ったもの。

「釈迦如来坐像」

ご本尊は冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来」と呼ばれ、華厳の盧遮那仏(るしゃなぶつ)とも称される。

上記写真:円覚寺HPより転載

「白龍図」(天井画)

天井の「白龍図」は、前田青邨画伯(1885〜1977)の監修のもと、守屋多々志画伯(1912〜2003)によって描かれたもの。

前庭にある「柏槇(ビャクシン)」

伊吹。ヒノキ科の常緑高木。暖かいところを好む。大きくなると幹がねじれたようになり独特の趣があり、鎌倉では別名の「柏槇(ビャクシン)」で呼ばれることが多い。

「選佛場(せんぶつじょう)」

仏を選び出す場所という意味で、修行僧の坐禅道場のこと。元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進するとともに、それを所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物として建立された。南北朝時代の薬師如来像が中央に祀られ、また平成15年(2003)より、円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観世音菩薩像が安置されている。

「居士林(こじりん)」

「居士」とは在家の禅の修行者を指し、居士林は禅を志す在家のための専門道場。もと東京の牛込にあった柳生流の剣道場が、昭和3年(1928)柳生徹心居士より寄贈され、移築された。

「方丈(ほうじょう)」

本来は住職が居住する建物を「方丈」とよぶが、現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の宝物風入など、多目的に使われている。

「百観音霊場」

「百観音霊場」の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされている。円覚寺の方丈前の「百観音霊場」は、江戸時代、拙叟尊者が百体の石仏を岩窟に奉安したことが由緒として、明治に至って今北洪川老師が整備した。

「方丈」前の「柏槙(ビャクシン)」

 <市指定天然記念物>

円覚寺開山、無学祖元禅師により植えられたとの言い伝えから七百年以上の樹齢だといわれている。

「方丈裏庭園」

心字池のある美しい庭園

「妙香池(みょうこうち)」

創建当初よりある放生池で、江戸時代初期の絵図に基づき、平成12年(2000年)、「方丈裏庭園」と合致した自然の姿に復元した。向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見立てて、「虎頭岩」(ごとうがん)と呼んでいる。

「舎利殿 」<国宝>

「塔頭正続院」の境内にあり、鎌倉で唯一の国宝に指定されている。創建当初の建物は、1563年(永続6年)に焼失、その後、太平寺の仏殿を現在地に移築。単層、入母屋造り、杮葺など典型的な唐様禅宗建築で、室町期の建造と言われている。「舎利殿」には、源実朝公が宋の能仁寺から請来した「佛牙舎利」(ぶつげしゃり)というお釈迦様の歯が祀られている。普段は一般公開されておらず、年に一度風入れの時などには公開されるとのこと。

上記写真:円覚寺HPより転載

「如意庵」

円覚寺境内にある円覚寺の「塔頭寺院」。二十四世明巌正因大達禅師の塔所として、貞和4年(1348)萬寿寺(廃寺)内に創建、文和3年(1354)円覚寺に移転したといわれている。なお、「如意庵」の本堂が、茶寮「安寧」になっており、開寮日は水・木・金、毎月第二土曜日にランチを営業している。

玄関に季節の設え。

ご住職の手によるものだそうです。

「佛日庵」

鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山である円覚寺は、1282年、時の執権・北条時宗公によって、元の襲来による合戦での両軍の戦没者供養を目的として、創建。「佛日庵」は、その開基北条時宗公を祀る「塔頭寺院」。境内には、北条時宗公、貞時公、高時公の棺が安置してある「開基廟」、川端康成の小説『千羽鶴』の舞台になったことでも知られる茶室・烟足軒(えんそくけん)、また、円覚寺山門建立の時(天明年間 1781~88年)に使われた長さ48尺の物差しが現存している。

「開基廟」

「黄梅院(おうばいいん)」

円覚寺の境内最奥にある。山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。足利尊氏の帰依を受け、五山文学に功績を残したことで有名な夢窓疎石の塔所。

「山門」

「本堂」

「観音堂」(武山堂)

「白鹿洞」

円覚寺開堂の日、開山無学祖元禅師の説法を聴こうとして集まった多くの人々と供にこの洞穴より白鹿が群れをなし禅師の説法を聴いたという。大衆は大いに驚異し、この奇瑞譚により山号を「端鹿山」と定めた。

「弁天堂」

「仏殿」の右手、鳥居をくぐり143段の階段を上がっていくと「弁天堂」💦

「弁天堂」

江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂。北条貞時が洪鐘とあわせて弁天堂を建立し、当山の鎮守とした。

上記写真:円覚寺HPより転載

「洪鐘(おおがね)」<国宝>

関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5cm)で、国宝に指定されている。円覚寺の開基である北条時宗の子である貞時が正安3年(1301)、国家安泰を祈願して寄進したもの形が雄大でありながら細部にまで緻密な神経がゆきわたっている、鎌倉時代後期を代表す梵鐘。


御朱印