善光寺 (長野県長野市大字長野元善町)


1400年の歴史を持つ、「牛に引かれて善光寺参り」で有名な日本を代表するお寺のひとつで日本最古のみ仏を祀っている。ご本尊は一光三尊阿弥陀如来。「本堂」は、国宝に指定されており、仏堂の前面に長大な礼堂を配した撞木造と呼ばれる独特の構造を持つ。縦長で約24mの間口に対して、奥行きが約54mとT字型の形状。無宗派の寺院であり、身分も性別も分け隔てなく、お参りした全ての人に救いや希望をもたらしてくれるということもあって、「遠くとも 一度は参れ 善光寺」と謳われ、“一生に一度お参りするだけで、極楽往生が叶う”といわれているお寺です。~善光寺HPより転載~ -2017.09.19-

境内図

善光寺HPより転載

「仁王門」<登録有形文化財>

宝暦二年(1752)に建立されたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、大正七年(1918)に山形村永田兵太郎翁の寄進により高さ約14m間口約13m奥行約7mのケヤキ造りで再建された。この門には善光寺の山号である「定額山【じょうがくざん】」の額が掲げられている。再建までの間、露座【ろざ】の仁王として親しまれた仁王像は現在、飯山駅前に安置されている。~善光寺HPより抜粋転載~

「山門」(三門)

<重要文化財>

江戸時代中期の寛延三年(1750)に建立されて以来、大勢の参拝者を本堂に迎え入れてきた歴史ある門。様式は五間三戸二階二重門、屋根は入母屋【いりもや】造りの栩葺【とちぶき】で、国の重要文化財に指定されている。弘化四年(1847)の善光寺地震や、昭和四十年代の松代群発地震などの影響で建物の基礎が損傷し、加えて全体の老朽化も進んだことから、平成十四年(2002)10月から平成十九年(2007)12月までの約5年間、山門としては初の大規模な修復工事となる平成大修理を実施。これにより山門は従来の檜皮葺【ひわだぶき】屋根から建立当初の栩葺屋根に復原され、国内に現存する最大の栩葺建造物として甦った。この修復後、約40年にわたって中断されていた二階への登楼参拝を、平成二十年(2008)から再開している。楼上には輪王寺宮【りんのうじのみや】公澄法親王【こうちょうほっしんのう】筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられている。大きさは約三畳分。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、三文字の中に鳩の姿が五羽隠されている。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っている。~善光寺HPより抜粋転載~

上記写真:善光寺HPより転載

「大香炉」

戦時中に金属供出に出されたが、昭和31年(1956)に富山県高岡市で作られ奉納された。

「本堂」 <国宝>

創建以来十数度もの大火に遭ったが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒らによって復興されてきた。現在の本堂は宝永四年(1707)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として昭和二十八年(1953)に国宝に指定されている。高さ約29m、間口約24m、奥行約54mという東日本最大級の国宝木造建築で、衆生の煩悩の数と言われる百八本の柱で造られている。~善光寺HPより抜粋転載~

本堂を上空から見ると、棟の形がT字型になっており、この形が鐘を叩く撞木【しゅもく】に似ていることから「撞木造り【しゅもくづくり】」と呼ばれている。屋根はヒノキの樹皮で葺かれた檜皮葺き【ひわだぶき】の技法が用いられている。~善光寺HPより抜粋転載~

上記写真:善光寺HPより転載

本堂に架けられる幕や境内各所に見られる葵の紋は、善光寺を開かれた御開山本田家の家紋「立葵【たちあおい】」であり、善光寺の寺紋。~善光寺HPより抜粋転載~

「経蔵」

< 重要文化財>

宝暦九年(1759)に建立された五間四方宝形【ほうぎょう】造りのお堂。昭和四十九年(1974)に江戸時代を代表する経蔵建築として重要文化財に指定されている。内部中央には八角の輪蔵【りんぞう】があり、その中には仏教経典を網羅した鉄眼黄檗版【てつげんおうばくばん】『一切経【いっさいきょう】』全6,771巻が収められている。高さ約6m、重さ約5t、奥行約4mの巨大な輪蔵を時計回りに一周押し回すと、収められた『一切経』を全て読んだことと同じ功徳【くどく】が得られるといわれています。~善光寺HPより抜粋転載~

「輪蔵」

御朱印

日本忠霊殿・善光寺史料館


明治三十九年(1906)に境内に建立され、昭和四十五年(1970)に現在の三重塔構造に建て替えられた。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまで、戦没者二百四十万余柱の英霊を祀る我が国唯一の仏式による霊廟。御本尊は一光三尊阿弥陀如来の分身仏。一階には善光寺所蔵の什物【じゅうぶつ】を展示する「善光寺史料館」が平成11年に併設され、善光寺所蔵の什物を常時展示している。~善光寺HPより抜粋転載~

六地蔵


宝暦九年(1759)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、昭和十九年(1944)に軍需物資のための金属供出に出された。現在の六地蔵は、昭和二十九年(1954)に再興されたもの。六地蔵とは、私たちが輪廻転生するといわれる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界で、我々衆生を救ってくださる菩薩様。~善光寺HPより抜粋転載~

一番手前の地獄界の「菩薩地蔵」は、片足を踏み出している。これは「一刻も早く人を救いに行こうとする気持ちの表れ」と言い伝えられている。また、道を踏み外してしまったことによる地獄を表現しているとの説も。

参道


大本願前にある

「念ずれば花ひらく地蔵」

念ずれば花ひらく 

苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたびわたしの花が ふしぎとひとつひとつ ひらいていった 真民  -詩人坂村真民の詩-

「むじな燈籠」

むかし、下総の国(今の千葉県)に住んでいたむじなが人の姿となり、善光寺参りの講中にまじって善光寺におまいりしました。

むじなは、殺生することなしに生きていけない自らの罪業を恥じ、後生を頼むため、善光寺に灯篭を寄進したいという願いをもっていました。白蓮坊を宿に定め、ようやく善光寺への参詣を果たしたむじなは、その晩安堵してお風呂につかりました。

ところがうっかりむじなの姿のままで湯を浴びているところを見つかり、あわててどこかへ逃げ去りました。姿を消したむじなを不憫に思った住職は、むじなが灯篭を寄進したいという願い持っていたことを伝え聞いて、一基の常夜灯を建ててあげました。それが今も経蔵北に残る「むじな燈篭」だといわれています。~下記案内板より転載~

百蓮坊前の

「むじな地蔵」と「むじな」

善光寺郵便局