増上寺(港区芝公園)


浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。 開山は明徳4年(1393)浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護を受けました。慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも 浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。~下記案内板より抜粋転載~ -2021.05.06-

上記出典:増上寺HPより転載

「三解脱門」(三門)

<国重要文化財>

慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和8(1622)に再建された。この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されている。三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・おろかさ)の三悪を解脱する悟りの境地を表している。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せている。その大きさは、間口十間余(約19m) 奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4m)の山廊を有している。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されている。~下記案内板より抜粋転載~

「水盤舎」

<区登録有形文化財(建造物)>

この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光三男甲府宰相綱重公)の霊廟にあったが、 明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築された。 徳川将軍家霊廟建築を伝える貴重な遺構のひとつ。~下記案内板より抜粋転載~

「鐘楼堂」

寛永10年(1633)に建立されたが焼失、戦後に再建された。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られている。その大きさ、高さ一丈(約3m) 重さ四千貫(約15t)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘う。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきた。~下記案内板より抜粋転載~

「梵鐘」

<港区指定有形文化財(工芸品)>

総高が約330㎝、口径176.6㎝、重さが約15tといわれ、東日本では最も大きな梵鐘。鋳造は延宝元年(1673)。江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師、椎名伊予吉寛の作。

「大殿」

昭和49年(1974) 、浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建した。「大殿」と称し、間口二十六間余(約48m)奥行二十五間余(約45m)高さ七丈半余(約23m)総面積は10.535㎡という大きさの大本堂です。石段を登りきった二階に本堂、三階に道場、一階に壇信徒控室、地下に宝物展示室などを備えている。本堂には、本尊の阿弥如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめている。~下記案内板より抜粋転載~

「大殿」は残念ながら修復工事中で覆いがかぶっていました。増上寺HPによると、

:令和6(2024)年に法然上人が浄土宗を開かれて850年の大きな節目を迎え、この機会に大本山増上寺浄土宗開宗850年慶讃事業として、大殿屋根瓦総葺き替えを実施。現代の環境に適した厚さ0.3㎜チタン瓦に葺き替え、従来の土瓦から総重量を約1/10に軽量化する。施工は2020年10月1日より2021年11月に完工とのこと。

上記写真:港区観光協会出典

「安国殿」

この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっている。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和49年(1974) 当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名した。建物の老朽化に伴い、平成23年(2011) 法然上人800年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立した。「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、5月、9月の各15日、年3回行われる祈願会の時だけ御開帳される。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれている。~下記案内板より抜粋転載~

「光摂殿」

「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂・道場として平成12(2000)年に完成。1階が講堂、3階が大広間(非公開だが格天上に日本画家120名の天上絵が嵌め込まれ後世への美術遺産となるという)

「西向聖観世音菩薩」

<港区登録有形民俗文化財>

鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音さま。子育て・安産に霊験あらたかと伝えられている。昭和50(1975)年浄土宗開宗八百年記念の境内整備事業として、現在の安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われている。

聖観音像は右側のお堂に安置されている

「千躰子育地蔵菩薩」

子育安産の西向聖観世音菩薩にちなみ、昭和50年頃より子育地蔵が徐々に建立され、境内北側に約1,300体が安置されている。このお地蔵様は、お子様の「無事成長」「身体健全」或いは「水子さま」のご供養のためにと願いを込めて建てられたもの。

「徳川将軍墓所」

戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいた。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後、昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除された。正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構。墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。~下記案内板より抜粋転載~

「鋳抜門」(いぬきもん)

<港区指定有形文化財(建造物)>

左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋。両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている。

静寛院 和宮(青銅製)

十四代 家重公(石塔)


六代 家宣公夫妻(青銅製)

二代 秀忠公夫妻(石塔)


七代 家継公(石塔)

九代 家重公(石塔)


十二代 家慶公(石塔)

将軍生母側室等(石塔)


「四菩薩像」

<港区指定有形文化財(民俗文化財)>

向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の四体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔て東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下す形をとっていた。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉2年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれている。

「貞恭庵」

幕末の劇的な時代を生き抜いた徳川家十四代将軍家茂公正室、皇女和宮さまゆかりの茶室。昭和55年(1980)に移築・改修された。その際に和宮さまの戒名『静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉』から「貞恭庵」とつけられた。四畳半の二間の茶室からなる建物。増上寺では和宮さまの遺品と伝えられている袈裟、琴、手紙、漢詩の書掛軸などを所蔵している。~下記案内板より抜粋転載~

「大納骨堂」(舎利殿)

昭和8年(1933)に建立された。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像。戦災の難を逃れた数少ない鋳造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修された。堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされている。~下記案内板より抜粋転載~

「圓光大師堂」

この御堂は平成23年(2011)宗祖法然上人800年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、時の執事長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執事長が後を襲ぎ、平成18年11月25日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領した。成田台下は直ちに「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成21年9月に竣工した。圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向拝軒唐破風付、間口四間(約8m)、奥行は裏堂を含み八間(約13.5m)、高さ9.5mの御堂。~下記案内板より抜粋転載~

増上寺景光殿(旧広書院)表門

<港区指定有形文化財(建造物)>

桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)です。一時期、明治42年(1909)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していたが、建築当初の位置は明らかではありません。現在地には昭和53年(1978)に移築された。正面の蟇股には表裏両面に三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっている。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋が付される。虹梁絵様の形は17世紀末から18世紀前期の特徴を示し、増上寺水盤舎(清揚院霊廟から移築)のものに類似している。徳川家光次男、甲府宰相綱重(1644ー78、法名清揚院殿)は、宝永2年(1705)に伝通院から増上寺に改装されており、この門も近い時期に建てられたと考えられる。本建築は、徳川家菩提寺として隆盛を誇った増上寺の往時の華麗さを伝える数少ない遺構の一つとして貴重です。 平成17年10月25日 港区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「増上寺経殿」

<東京都指定有形文化財(建造物)>

増上寺は明徳4年(1393)酉誉聖聡により武蔵国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長3年(1598)現在地に移転した。同10年から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門・方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家の菩提寺、浄土宗の関東十八檀林の筆頭に就き、浄土宗宗政を総括する総録所となりました。経蔵は慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)12月に改造移築し、さらに享和2年(1802)6月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て八面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、自由に回転できる八角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宗版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されている(現在は別に保管されています)。平成22年3月 建設 東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「慈雲閣」(開山堂)

この御堂は、平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山 堂の再建を企画、建築された。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師・聖冏(しょうげい)上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されている。

「増上寺旧方丈門」(黒門)

<港区指定有形文化財(建造物)>

増上寺の方丈の表門であったので方丈門と呼ばれ、全体が黒漆塗であったため、黒門とも呼ばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。~東京都港区教育委員会案内版より転載~

慶安年間(1648~1652年)、三代将軍家光公の寄進・建立とされている。 御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55(1980)年に当山通用門として日比谷通り沿いに移築した。~増上寺HPより転載~

「熊野神社」

元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。 『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、当山では「ユヤ」権現として親しまれている。

「増上寺のカヤ」

<港区指定文化財(天然記念物)>