密蔵院 (埼玉県川口市安行)


文明元年(1469年)に中興された「密蔵院」は、正式名称を「海寿山 満福寺 密蔵院」とし、自然の息吹に溢れた川口市安行の緑の里にあり、550余年の歴史と、風格を醸し出している。御本尊は、平安時代藤原期に創られた地蔵菩薩像で、明治初期までは京都醍醐寺無量寿院の末として、本寺の寺格と御朱印十一石、四十四ヶ寺の末寺を有し、川口、浦和、草加、越谷、大宮などの各寺院に影響をもたらした川口市内有数の古刹。早春の安行桜🌸の季節には多くの参拝者が訪れる。「密蔵院」では数十本の安行桜が境内の要所に植林され、早春に美しい景観を楽しむことができる。 ~密蔵院HPより抜粋転載~  -2020.03.11-

「参道」

安行桜は、染井吉野よりも一足早く満開を迎え、沖田桜とも呼ばれる安行桜はピンクの色彩がやや濃く、花が少し小ぶりで、遠景ではやわらかいイメージに映る。

<安行桜> 沖田雄司氏の研究改良によるもので、またの名を沖田桜とも呼んでいる。一般の桜開花期よりも早く咲き出し、赤みを帯びた花色は艶やかでその華麗さは人々を堪能させて余りあり、密蔵院に詣でる善男善女を楽しませている。

「手洗い場」

「納めの不動尊」


「山門」

明治19年(1884)当山第三十世三池照鳳大僧正により、薩摩藩島津家江戸屋敷の中門を移築して今に姿をとどめている。

「山門」の反対側から

「お砂ふみ参道」

四国八十八ヶ所お砂踏み・四国八十八ヶ所の霊場よりお砂を移し、そのお砂を踏むことによって巡礼のご利益をいただく。歩を進めるごとに「南無大師遍照金剛」とお唱すると同じご利益があると言われている。

「本堂」

当山は、延命地蔵菩薩(総高二尺一寸五分、慈覚大師の作、平将門の念持仏の伝承をもつ、平安時代藤原期の作)を本尊となす。

「本堂」の屋根には北斗七星を象ったという「九曜星」の紋章(写真下)が輝く。これは関東の英雄・平将門が愛用していたとのことです。

境内の安行桜


「水掛地蔵尊」

子供の御霊をその深い愛・慈悲の心でお救い下さるお地蔵様。

密蔵院の仏さま


                    「弘法大師修行像」
宝亀五年(774年)6月15日、現在の香川県善通寺市にご誕生。15歳にして当時の都、奈良に入京、17歳の時に大学に入学するも仏教追道の心やみがたく中退。各地を遍歴して仏道を歩み仏竟を求めて修行。20歳にして出家得度。21歳にして戒を受け空海と改名。31歳にして中国の都長安に至り恵果和尚より真言密教の教えの全てを受法。帰国後、大乗仏教の真髄たる真言密教の普及と済生利民のお心のもと超人的活躍をされる。まさに我が国に於ける仏教者の師標として今日に至るまで多くの大衆から厚い尊崇を受けられている。63歳にして高野山に入定せらる。醍醐天皇より弘法大師と謚名を賜る。

「興教大師像」

嘉保二年(1095年)現在の佐賀県鹿島市にご誕生。13歳の時入京。仁和寺に於いて得度。修学修行を積まれ20歳にして高野山に登嶺。弘法大師を崇敬、大師の歩まれた道を範として刻苦勉励日夜を分かたず精進研鎮、その学徳並ぶものなしと云われた。高野山を再興し、大師教学を振興したご功績は誠に大。根来山に於いて49歳を以って入滅。東山天皇より興教大師と謚名を賜る。

境内散策


「鐘楼」

鐘楼の天上に取り付けられた仏画

-写佛教室の生徒各氏が描いたもの-

「不動堂」

「大黒堂」

福徳円満な印度の神、有福糧食を司る。仏教と共に日本に伝えられた。もともとは悪を制する神で、打出の小槌は、宝を出す槌であり怠け者を打つ槌でもある。

「茶筅供養塚」

本堂裏を散策


「十六羅漢像」

羅漢は阿羅漢あらはんの略で、サンスクリット語の「アルハット」が語源。直訳すると「...するに値する人」「受ける資格のある人」という意味。これから発展して「修行を完成して尊敬するに値する人」「悟りを得た人」「悟りをひらいた高僧」を指す。お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢という。

「平将門の供養塔」

「みかえり地蔵尊」

「人をのみ渡し渡して己が身は、岸にのぼらぬ渡し守かな」混沌とするこの世の中より仏の世界へ導いてくれる仏様人々の苦しみを除き、楽しみを与える(抜苦与楽)。後ろを振り返り、全ての人々を救わんとするお地蔵様。

上記写真:密蔵院HPより転載

「平将門供養塚」に上ると、「本堂」裏の窓から「みかえり地蔵尊」が拝めるという。実際に試してみましたが、窓に光が反射して見ることができませんでした😢

「銭洗い弁財天尊」

七福神唯一の女神。印度の神で芸術音楽の仏神、弁舌才智の神、水の神であり、財宝福徳、学業増進、商売繁盛の仏神として広く信仰される。

「お百度石」



「春彼岸特別御朱印」

左の顔入り御朱印が人気だそうです。