帝釈天題経寺 (葛飾区柴又)


当山は経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。御本尊の片面には、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれ、 両脇には、法華経・薬王品の「この経はこれ閻浮提《仏教で全世界のことを言う》の人の病の良薬なり、 もし人病あらんに、この経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という経文が彫られてあり、 そしてもう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒の相をあらわした帝釈天御本尊が彫られてある。 これは悪魔降伏の尊形であり、即ち我々仏の教えを信仰し、従う者には、もし病難や火難、 その他一切の災難に遇えば、帝釈天が必ず守護し、この悪魔を除き退散させてくれると言うものである。

帝釈堂の右手に国宝級ともいわれる「彫刻ギャラリー」と「大客殿」、「回廊」から見られる庭園の「邃渓園(すいけいえん)」を見学。 ~帝釈天題経寺HPより転載~ -2018.09.17-

帝釈天境内案内図

帝釈天題経寺HPより転載

「二天門」

帝釈天の配下の四天王のうち、南方守護の増長天、西方守護の広目天を安置。明治29年(1896)、江戸期建築の最後の名匠と言われた坂田留吉棟梁によって造りあげられた、総欅造りの豪壮な門。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、桝組は、三手先、扇タルキの見事な出来映えは、この寺の建造物の中でも、ひときわ優れている。この二天像は、奈良大安寺にあった往古の文化財と伝えられ、奈良時代の造像。多くの木彫群によって荘厳された重厚優美な「二天門」は、門前通りの正面にそびえ立って見られる。

「帝釈堂」

日蓮大聖人が衆生の病を無くさんと、願いをかけて刻まれた板本尊を祀る「帝釈堂」は、名人、坂田留吉棟梁が仕上げた総欅造り。特に堂の周囲を法華経説話に取題した彫刻をめぐらして、まさに当山の山号である経栄山にふさわしい工夫は、入念の彫刻作品とともに無類の文化財になっている。

「端龍の松」(ずいりゅうのまつ)

<東京都指定文化財>

樹齢およそ500年、高さおよそ10m、

幹回りおよそ1.8mのクロマツ

「大鐘楼」

昭和30年(1955)、名匠、林亥助棟梁によって完成された総欅の「大鐘楼」。高さ約15m、四手先の豪壮な桝組と木彫を施し、関東一の鐘楼と言われる。梵鐘は、雅楽「黄鐘調(おうしきちょう)」と言われ、昭和の銘鐘の名が高い。環境庁選定「日本の音風景100選:柴又帝釈天界隈と矢切の渡し」の主役。寅さんの映画でも必ずこの大鐘楼の効果音が挿入されている。

「木鼻」の獅子

 「浄行菩薩」

法華経に説く地涌(ちゆ)の四菩薩の一人で、

地水火風の四大の内、水大の菩薩としてこの世を浄化し、

人々の罪や穢れを洗い清めてくださる。

御朱印

彫刻ギャラリー


堂の内外には、数多くの木彫がほどこされているが、特に帝釈堂内陣の外側に彫られているものはガラスで仕切られ「彫刻ギャラリー」となっている。 十枚の胴羽目彫刻は仏教経典の中でも最も有名な「法華経」の説話を選び出して彫刻したものであり、この法華経説話彫刻は、当山第十六世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次朗氏の丹精協力を得て大正末期より昭和九年に至る十数年の歳月を費して完成したものである。~帝釈天題経寺HPより転載~

「木鼻」の獅子

「塔供養の図」

金子 光清 彫刻

「三車火宅の図」

木嶋 江運 彫刻

「慈雨等潤の図」

石川 信光 彫刻

「法師修行の図」

横谷 光一 彫刻

「多宝塔出現の図」

石川 銀次朗 彫刻

「千載給仕の図」

加府藤 正- 彫刻

「龍女成佛の図」

山本 一芳 彫刻

「病即消滅の図」

今関 光次 彫刻

「常不軽菩薩受難の図」

「法華経功徳の図」

小林 直光 彫刻

「法師守護の図」

加藤 寅之助 彫刻

大宮殿と回廊・邃渓園


「大客殿」と「回廊」 : 1929年(昭和4)に完成した平屋建ての日本庭園で、座敷4室を左右一列に配した左右に長い造りが特徴的。この建物は東京都の「選定歴史的建造物」となっている。大客殿廊下からつながっている回廊は、庭園「邃渓園」の外周をぐるっと廻っている。

「邃渓園(すいけいえん)」 : 「邃渓園」の名は庭園の滝の風情が幽邃でもの静かであることによる。1965年(昭和40)より、関東の高名な造園師、永井楽山翁によって改修、1972年(昭和47)完成。楽山翁は戦前よりこの庭園を手掛け、92歳で没するまで心血をそそいだ。 ~帝釈天題経寺HPより転載~

屋根のある「回廊」から庭園を臨む