松陰神社(世田谷区若林)


吉田松陰先生は安政6年10月27日、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文、等によってこの世田谷若林の地に改葬されました。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。今日の社殿は昭和二年から三年にかけて造営されたものです。近年は学問の神として崇敬を集め参拝者は全国各地に及んでいます。~松陰神社HPより転載~ この後「太子堂八幡神社」「教学院」へ徒歩で向かいました。-2021.02.25-

「松陰神社旧鳥居柱」

松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建設された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座を含め総重量20トンほどであった。平成23年10月の新鳥居建設にあたり解体。その一部を保存した。「明治四十一年十五十年祭典」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し告示したもの。~下記案内板より転載~

「神楽殿」

昭和7年、旧府社に昇格する際、毛利家より寄贈されたもの。平成12年には大改修され増築された。

「吉田松陰先生像」

明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式が行なわれた。~下記案内板より転載~

「手水舎」

現在の社殿と共に、昭和2年(1927)門下生であった明治の元勲其の他の崇敬者により造営されたもの。

「社殿」

神社創建時に伊藤博文、山縣有朋、井上馨、乃木希典、等の方々によって造営された社殿は現在本殿の内陣となっています。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて、明治の元勲や崇敬者の方々によって造営された。

「石燈籠」

境内には毛利元昭公を始め、先生門下の伊藤博文、山縣有朋等の縁故者より奉献された32基の石燈籠がある。その燈柱に刻されている文字は書家竹山先生の所謂、八分隷書体に成るもので貴重な文化財とされている。

「松下村塾」

松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。(玉木氏は明治9年死亡)松陰先生は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し師弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、山縣有朋、品川彌二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。~下記案内板より転載~

※土日祝のみ雨戸開放(午前9時から午後4時)但し風雨により開放しない場合があります。

「木戸孝允寄進の鳥居」

松陰先生墓域の入口に建てられている鳥居は、松陰先生墓所の修復の際、木戸孝允によって奉納されたもの。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれている。

                    「松陰先生他烈士墓所」

文久三年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓(紅葉)の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所としました。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年十一月、福原乙之進を埋葬。 禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰先生以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑を建立しました。 明治2年整武隊長官が鳥居より墓前に至る道に石を敷いて参拝に便ならしめ、かくして墓域は完成し、忠魂の鎮座することとなりました。

「松陰先生墓」

「徳川家奉納の水盤と石燈籠」

禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって破壊された松陰先生墓所を明治元年、木戸孝允等が修復した。先生墓所前の葵紋のついた石燈籠(墓前前の内側の一対)と域内の水盤は墓所修復の挙を聞いた徳川氏から謝罪の意を込め奉納されたもの。(葵紋は、奉納当時金色であったと言われているが、現在は風化により紋は判別しにくくなっている)

「絵馬」

「勝絵馬」(かちえま)

松陰先生の肖像画と松陰先生直筆の「勝」の文字をいただいた絵馬。松陰先生のように自分の弱い心に負けないようにとの願いが込められています。

「志絵馬」(こころざしえま)

松陰先生の肖像画と松陰先生直筆の「志」の文字をいただいた絵馬。松陰先生のように初志を忘れず困難に立ち向かえますようにとの願いが込められています。