瀧泉寺 目黒不動尊(目黒区下目黒)


天台宗泰叡山「瀧泉寺」は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将車徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その他、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、「仁王門」左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。~下記案内板より転載~ -2021.02.17-

境内案内図

「仁王門」

開口(阿)那羅延金剛・閉口(吽)蜜迹金剛

階上には韋駄天を祀る

😊マスクをかけた「狛犬」😊

「仁王門」裏側

「男坂」「女坂」の前の珍しい和犬型狛犬

文久2年(1862年)1月建立


「男坂」

「女坂」


「大本堂」を護る狛犬

“都内最古の狛犬”

承応3年(1654年)に建立


「大本堂」(当山本尊)

秘仏・十二年に一度、酉年ご開帳『破邪顕正』の明王として、あらゆる災難厄難を除けて、福となす『福寿開運』の仏「不動明王」。

「大本堂」左方に白梅、右方に紅梅


⇒「大本堂」裏

「銅造大日如来坐像」

<区指定有形文化財-彫刻->

蓮華座に結跏趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹き寄せの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯の衣文表現もよく整っています。現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴名が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名がみえることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。

「地主神」

「大日如来像」のさらに奥まった、敷地の奥にある。ここの境内地を守護する「地主神」で、天台宗の守り神。

⇒「大本堂」右側

「延命地蔵尊」

本海・山海・暁海の木食三上人が

願主となって鋳造

「護衛不動尊」

「八大童子」の山

不動明王を助け礼拝する者を

影の如く離れず守り衆生を救済する童子

「鐘楼堂」

⇒「大本堂」左側

「微笑観音菩薩」

「愛染明王」

縁結び・良縁成就のご利益があるとのこと。「愛染明王」の傍らには、“お参りのしかた”が記されている。女性は、左側より時計回りに、男性は反時計回りに、心鎮めて回り明王に一礼すれば願いが叶う。絵馬にはハートの絵柄が描かれている。

「意志不動尊」

⇒ 帰りは「女坂」を降りる。

「銅造役の行者倚像」

<区指定文化財>

役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで、江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。表面は黒光りしており、これは、鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手に錫杖を、左手に巻子を持っています。また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義による制作であることがわかります。~下記案内板より転載~

「地蔵堂」

地蔵尊

(無仏時代の救世仏、女性や子供を守る)

閻魔王・葬頭河の婆(奪衣婆)を祀る

「観音堂」

江戸三十三観音霊場の結願札所

聖観音・千手観音・十一面観音を祀る

「阿弥陀堂」

泰叡山 瀧泉寺 本坊 

阿弥陀三尊

(観音・勢至・阿弥陀)を祀る

「水かけ不動明王」

当山の開基は天台座主第三祖慈覚大師円仁で、千二百有余年前の大同三年(808)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安二年、大師が法具”独鈷”を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「独鈷の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰叡」の勅額を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「独鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の当病平癒を祈願されました。
              
目黒不動尊御詠歌
 清らけき 目黒の杜の独鈷瀧 災厄難を除ける不動尊

ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され。より清らかな心と身で目黒の不動さまに参脂できることとなりました。合掌礼拝して「独鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。~下記案内板より転載~

観想参拝の方法

「独鈷の滝」

このお滝は今を去る千二百年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷を投げたところ、忽ち滝泉か湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに干天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。今日都内では大変珍しい名所である。~下記案内板より転載~

「垢離堂」

青竜大権現を祀る

「竜泉寺前不動堂」

<東京都指定有形文化財-建造物->

泰叡山滝泉寺は、通称「目黒不動尊」と呼ばれており、大同三年(808)、慈覚大師円仁の創建と伝えられる天台宗の寺院です。境内にある前不動堂は、江戸時代中期の建築になり、「江戸名所図会」にも、現在地付近に「前不動」として図示されています。前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像等を安置してあります。江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。筆者の佐々木玄龍は、通称万二郎、池庵を号していました。慶安三年(1650)、江戸に生まれ、書風一家をなし、享保七年(1772)に亡くなり、墓標は青山霊園にあります。~下記案内板より転載~

「前不動堂」を護る和犬型狛犬

文久二年(1862年)建立

うなだれているようで可愛い!!


「瀧泉寺勢至堂」

<区指定文化財>

「瀧泉寺勢至堂」は、江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、「勢至堂」は「前不動堂」より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、「勢至堂」は「前不動堂」の建立からそれほど時間のたたない内に、「前不動堂」を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は「前不動堂」の前方にありましたが、昭和44年に行われた「前不動堂」の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、瀧泉寺境内の優れた景観を形成しています。~下記案内板より転載~

「山不動」(腰立不動堂)

『立身出世』のお不動様

「三界萬霊供養塔」

欲界・色界・無色界の精霊を供養する

「北向六地蔵尊」

「如意大黒天」

⇒「仁王門」左手の池そば

山手七福神「恵比寿神」

「豊川稲荷」

商売繁盛、豊川稲荷を祀る

「弁天堂」(三福神)

恵比寿神・弁財天・大黒天の三福神を

筆頭に七福神すべてを祀る

江戸最古「山手七福神」の恵比寿神

「福珠稲荷大明神」