烏山寺町Ⅱ(世田谷区北烏山)


北烏山2丁目から6丁目にかけて、寺町通りを中心にみどりにつつまれた26もの寺院が軒を連ねる烏山寺町。小京都と呼ばれるように、ここが東京かと思うような、白壁の連なりが落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
それぞれの寺院は長い歴史がありますが、寺町のおいたちは、関東大震災(1923年・大正12年)の後、浅草、築地、本所、荒川など都心部から移転してきた寺院が集まったのが始まりです。~世田谷区HPより転載~ 千歳烏山駅から烏山寺町に入り"寺町通り"、"松葉通り"その周辺沿いの寺院を歩く。 -2021.02.22-

妙壽寺(世田谷区北烏山五丁目)


妙壽寺は、寛永8年(1631)、本光院日受上人(後鷲山16世)「好感寺」として江戸谷中清水町に開創された法華宗のお寺。寛文2年(1662)には本所猿江村に引き移った後に猿江村鎮守稲荷神社の別当となり「好壽寺」と寺号を改める。大正12年(1923)9月1日の関東大震災で諸堂宇を焼失し、現在地に移転することになりました。移転に際し、庫裏として旧蓮池藩鍋島家から住宅を譲り受け、後に客殿として使われることになりました。~世田谷区HPより抜粋転載~

「客殿」

<区指定有形文化財(建造物)>

大正12年(1923)の関東大震災で諸堂宇が焼失し、当地へ移転することとなり、かつて東京市麻布区飯倉狸穴町(現、港区麻布台二丁目)蓮池藩鍋島家邸宅にあった二階建ての和風住宅(明治37年築)を昭和2年 (1927)に移築し庫裡としました。 平成7年(1995)には庫裡を別棟で新築し、以後これまでの庫裡は「客殿」として利用されております。 移築の際、二階建ての和風住宅に式台のある平屋の棟を足したようで、それぞれ屋根の形状や使われている木材の材料が異なります。 二階建て部分は主に栂材を使った賛沢な普請で、内部は一階に座敷や台所を配し、二階には二十四畳の大広間と十二畳の次の間が配されています。 二階大広間は一間半幅の床の間と、天袋、違い棚の付く床脇、付書院が備えられ、天井は折上げ格天井、壁には蟻壁長押をまわす書院で、この住宅の上座敷となっています。かつて鍋島家では天井の高い大広間に椅子とテーブルを置き、和室でありながら洋風の接客をしていました。明治中期以降の華族や上流階級の生活様式を、建物を通しうかがい知ることができます。世田谷区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転記~ 

「鐘楼」

この梵鐘は、享保4年江戸時代中期(1719)に鋳造されたものです。大正12年9月関東大震災の時、隣接のガス会社より流出したコールタール等により猛火につつまれ破損したので当時の被害の甚大であったことが想像できるのであります。~下記案内板より抜粋転載~

「本堂」までの小径

竹林と椿

竹林と梅

「本堂」

宮澤賢治「雨ニモ負ケズ」詩碑

専光寺(世田谷区北烏山四丁目)


浄土宗系単立寺院の専光寺は、霊照山蓮池院と号し、慶長9年(1604)貞蓮社穏誉上人が品川に開山、馬喰町への移転を経て浅草新寺町へ移転した。関東大震災後の昭和2年(1927)当地へ移転している。境内には江戸時代の浮世絵師である「喜田川歌麿墓」がある。

喜田川歌麿墓

<都指定文化財>

喜多川歌麿(1753?〜1806)は、江戸時代中期の浮世絵師で、浮世絵喜多川派の祖とされている。出生地については、いくつか説があり、出生年も定かではありません。大首絵と呼ばれる美人画で、当時人気を得た。歌麿の作品は、天明・寛政期の浮世絵版画の黄金期を築きました。また、歌麿の作品は、フランス印象派の画家たちに強い影響を与えたことでも有名です。文化元年(1804)に「太閤五妻遊」を描き、入牢に処せられた。文化三年(1806)に亡くなり、浅草専光寺に葬られたが、関東大震災後の区画整理により、昭和三年(1928)に現在の場所に墓が移転された。 東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

永願寺(世田谷区北烏山四丁目)


真宗大谷派寺院の永願寺は、横河山と号し、元和3年(1617)越後の僧浄林坊浄順が浅草に創建。明暦3年の大火により報恩寺内へ、文化8年(1811)下谷へ、昭和11年に当地へ移転した。

高源院(世田谷区北烏山四丁目)


臨済宗大徳寺派の高源院は、瑞泉山と号し、久留米藩第5代藩主有馬頼元公の夫人(養福院高源宗隆大姉)を開基として元禄15年(1702)怡渓宗悦和尚が開山、品川東海寺の塔頭として北品川に創建。関東大震災により廃寺となったものの、昭和10年ころから有馬氏一族有志が再建を図り、昭和14年当地へ移転したといいます。境内にある弁天池(別名鴨池)は「せたがや百景」にも選定されている。

「本堂」

せたがや百景 43烏山の鴨池

寺町の北のはずれにある高源院の鴨池には、秋も深まるとたくさんの鴨がシベリアから飛んできます。コガモ、カルガモ、マガモなどが浮御堂が映した水面を泳ぎます。夏にはスイレンなどが咲き乱れ、赤い欄干にもたれていつまでも見飽きません。湧き水の涸れることのないこの池は、地域住民の環境協定で守られています。また、昭和60年3月には世田谷区の特別保護区にも指定されました。~下記案内板より転載~

「弁天池(鴨池)」と

「浮御堂(弁天堂)」

「浮御堂(弁天堂)」から

「本堂」を臨む

善行寺(世田谷区北烏山五丁目)


浄土真宗本願寺派寺院の善行寺は、定聚山と号し、創建年代は不詳だが、清伝法師の開基と伝えられている。築地御坊(築地本願寺)の一つとして明暦大火後には築地にあったが、大正期に入り当地へ移転。

「本堂」

萬福寺(世田谷区北烏山五丁目)


浄土真宗本願寺派寺院の萬福寺は、光明山と号し、創建年代は不詳。築地御坊(築地本願寺)の一つとして明暦大火後には築地にあったが、大正期に入り当地へ移転。

浄因寺(世田谷区北烏山五丁目)


浄土真宗本願寺派寺院の浄因寺は、壽光山と号し、創建年代は不詳。大正13年(1924)当地へ移転。 

「本堂」

妙善寺(世田谷区北烏山五丁目)


親鸞の弟子、正円が鎌倉時代伊勢国(三重県)に草庵をたてたのが、妙善寺のはじめとつたえられている。江戸初期八丁堀に、その後築地に移ったが関東大震災で焼失、昭和二年現在地に再建した。本尊、阿弥陀如来。寺内に為永春水の墓がある。為永春水、江戸末期の人情本作者、本名佐々木貞高、寛政二年江戸に生れた。天保三年ごろより「春色梅暦」「いろは文庫」などを書いて名声を得た。天保改革で風俗を乱すものとして罰せられ、五十五才で没した。世田谷教育委員会 ~下記案内板より転載~

順正寺(世田谷区北烏山四丁目)


浄土真宗系単立寺院の順正寺は、高柳山と号し、足利時代中期、赤坂一ツ木に創建されたと伝えられる。元和4年(1618)に焼失したものの寛永元年(1624)に了円が中興、寺号を順正院から順正寺へと改めたという。明暦元年(1655)鮫河橋に移転、さらに享保6年(1721)千駄ヶ谷に再転、昭和5年当地へ移転。

西蓮寺(世田谷区北烏山二丁目)


鳥山西蓮寺の創立は、慶長2年(1597)のことで、開基は、宗誓上人である。江戸桜田郷に一宇を建立した。寺は60年余り彼の地に在ったが、大名屋敷造立のため、上地を命ぜられ、西久保天徳寺門前に代替地を下賜され、同地へ移転した。更に、明暦元年(1655)、麻布三田村の地に移った。昭和10年、内務省都市計画事業のため、その道路用地として寺域の大半を収用されることになり、現在地烏山を選んで移転新築することとなった。~西蓮寺HPより抜粋転記~

「本堂」

常福寺(世田谷区北烏山二丁目)


当山は、山号を「法立山」、寺号を「常福寺」と称し、室町時代の永正8年(1511)8月、浄徳院日立上人により浅草新鳥越の地に創建されました。その後、江戸幕府の宗教政策により、同吉野町(現在の台東区今戸)に移転し、地元の庶民的な寺院として親しまれました。しかし、大正12年9月の関東大震災により、本堂や寺宝が全焼するという大惨事に見舞われました。以後約5年間もの年月を費やし、昭和3年3月、世田谷区北烏山に見事に移転・再建され、現在に至っています。境内にはマスコットとして「タヌキ」の置物が置かれ、通称「タヌキ寺」として親しまれている。~常福寺HPより抜粋転記~

上記写真:常福寺HP

妙揚寺(世田谷区北烏山四丁目)


日蓮宗寺院の妙揚寺は、自然山と号し、慶長19年(1614)忠禅院日延上人が開山。昭和3年芝白金から当地へ移転。

「本堂」

玄照寺(世田谷区北烏山四丁目)


長19年(1614)、開山は小湊誕生寺第18世忠禅院日延上人、開基は覚隆院日諦上人によって広宣流布、万民教化のために芝白金の地に開かれる。関東大震災後の区画整理のため、昭和2年(1927)芝白金の地より当烏山の地に移転し現在に至る。当山の日蓮大菩薩は、雨乞い(女乞い)の祖師として知られ、農家の人や女人の信仰が厚い。墓所には帯江戸川家代々の墓、堂内には子育鬼子母神像、大黒尊天像、清正公像などが勧請安置されている。~日蓮宗東京西部宗務所HPより抜粋転記~

「本堂」

「本堂」横の「竹林」

源良院(世田谷区北烏山四丁目)


浄土宗系単立寺院の源良院は、向旭山と号し、延宝4年(1676)、浅草西福寺末として神田に開基。その後湯島・浅草への移転を経て、関東大震災後当地へ移転した。当地へ共に移転してきた向旭院と合併、向旭山源良院と称している。

「本堂」