碑文谷八幡宮(目黒区碑文谷)


この神社は、旧碑文谷村の鎮守で、祭神は応神天皇です。畠山重忠(1205歿)の守護神を家臣筋の宮野左近という人がここに祀ったのがその起源だといわれています。創建年代は不詳ですが、「四神地名録」や「新編武蔵風土記稿」にも記されている由緒ある神社です。社殿は、延宝2年(1674)に建てられ、その後明治5年に再建、同20年に改築されました。本殿の右側に重忠の臣、榛沢六郎を祀った稲荷社があり、また碑文谷の地名の起こりとなったともいわれる梵字を刻んだ石(碑文谷)が保存されています。なお、当社には勝海舟筆の「額」や「のぼり」が所蔵されています。祭礼は春秋の2回で、昔ながらの”目黒ばやし”の音もなつかしく、みこしやだしも練り歩き賑やかです。 ~下記案内板を転載~

「一の鳥居」

「二の鳥居」

「三の鳥居」

「手水舎」

「本殿」

「末社 稲荷神社」

「碑文石(ひもんせき)」

この「碑文石」は、碑文谷の地名の起こりともなったといわれ当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として大切に保存に努めてまいりました。碑文(ひもん)を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。碑文石は近くの呑川の川床に露出していた上総(かずさ 三浦)層の砂岩で、普通、沢丸石(さわまるいし)と呼ばれる石を材料としています。この碑の上方には、中央に大日如来(だいにちにょらい バン)、左に熱至菩薩(せいしぼさつ サク)、右に観音菩薩(かんのんぼさつ サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子(さんぞんしゅじ)の板碑(いたび)の一種とみられます。高さ七五センチ、横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、下部が下脹(しもぶく)れのやや角張(かどば)った形をしております。碑文石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたものと伝えられ、大日と異系(いけい)の二種を合わせて表しているので、恐らく、室町時代のものとみなされます。江戸時代の名著、「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。碑文谷八幡宮 ~下記案内板より転載~

肝心の「碑文石」は、ガラス張りになっており反射してよく撮れませんでした💦

「碑文谷八幡宮」他にも碑文谷を散策しました!! 「碑文谷散策」のページ もご覧ください!!