明顕山 祐天寺 (目黒区中目黒)


「念仏の道場を建てて欲しい」との祐天上人(江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧)の遺命を受け、弟子の祐海上人が享保3年(1719)に建立。当時は新しい寺院の建立が禁止されていたが、8代将軍吉宗公のお取り計らいにより、善久院という小庵に祐天寺の名を付す形で建立することが特別に許可された。将軍家から寄進された諸堂宇によって伽藍が整えられ、百萬遍講などの念仏講も結成されて、多くの参詣人で賑わう念仏道場として発展してきた。~祐天寺HPより抜粋転載~ 東急東横線祐天寺にある目黒税務署の帰りに参拝してきました。今まで何度か祐天寺駅を降りていたにもかかわらず、駅名の由来となった「祐天寺」は、江戸中期の姿をそのまま残した貴重な文化財で満ち、歴史いっぱいのお寺にびっくりしました😲。-2020.03.06-

境内略図

「表門」

<登録有形文化財(建造物)>

祐天上人の100回忌にあたる文化14年(1817)に建てられ、格式高い門構えであることから国の「登録有形文化財(建造物)」となっている。

「仁王門」

<目黒区指定有形文化財(建造物)>

この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたもの。桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造木瓦葺銅板葺(昭和6年茅葺よりふきかえ)円柱は欅材。正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられている。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配している。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示している。各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めている。長い年月の間に幾度か修理・改修されているが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存。目黒区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「本堂」

<国登録有形文化財(建造物)>

万延元年(1860)に徳川家代々の位牌を祀る御霊殿として建て替えられた。明治27年(1894)の火災により焼失したため、明治31年(1898)に現在の本堂が再建された。「国登録有形文化財(建造物)」。本堂には「木造祐天上人坐像」が安置されている。この尊像は、徳川綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年(1719)大仏師法橋石見の名作「都指定有形文化財(建造物)」。

また、宝台院から寄贈された、徳川秀忠夫人(家光の生母)である江(崇源院)の位牌を納めて祀るために、寛永5年(1628年)に造られた「旧崇源院霊屋宮殿」がある。「都指定有形文化財(建造物)」

「木造祐天上人坐像」

「旧崇源院霊屋宮殿」

「書院」

<国登録有形文化財(建造物)>

明治28年(1895)に再建。本堂西方に北面する東西棟の寄棟造で、正面中央に玄関を構える。西寄りを板間とし、東側には前後二列に三室ずつ配る。南側の庭に面して主たる三室を並べ、東端室には大振りの床の間と違棚を構えた、風格ある座敷をなしている。都内では数少ない大規模書院の遺例といえるそうです。

「仏舎利殿」

平成29年(2017)に建立された。お釈迦様の舎利(遺骨)が納められている。正面の大絵馬は、累(かさね)伝説を題材として昭和61年(1986)に月岡栄貴画伯らによって描かれた。

「水屋」

<国登録有形文化財(工作物)>

祐天寺13世祐興(ゆうこう)上人が住職を勤めていた弘化3年(1846)に建立された。正面には江戸時代後期の書家・龍眠による「浄水」の文字が刻まれている。天井には龍の丸彫りが施されており、蟇股(かえるまた)には力士が鎮座しており、その周りには祐天寺の寺紋である鐶一紋(かんいちもん)をあしらった金具が使用されている。要所の彫刻がみごとであることから「国登録有形文化財(工作物)」となっている。

「鐘楼」と「梵鐘」

「鐘楼」と「梵鐘」は、6代将軍徳川家宣の17回忌追福のため、享保14年(1729)に正室の天英院から寄進された。「梵鐘」は、祐天寺と徳川家との関係を今に伝える歴史資料として「目黒区指定有形文化財(工芸品)」に、「鐘楼」は、「国登録有形文化財(工作物)」。

「五社稲荷」

祐天上人が出家を決意した際に(誕生の際との説もあり)白狐が三声鳴いたと言われており、その白狐を祐天上人の守護神として祀った随身稲荷がこの稲荷社の前身。のちに松黒、富山、天白、妙雲の四社が合祀され、現在の「五社稲荷」となった。

「阿弥陀堂」

<目黒区指定有形文化財(建造物)>

享保9年(1724)に5代将軍徳川綱吉の養女竹姫より寄進された。江戸時代中期の三間四面堂を知ることが出来る貴重な建造物として「目黒区指定有形文化財(建造物)」となっている。堂内に祀られている阿弥陀如来坐像は、前年の享保8年(1723)に竹姫より寄進された。仏師は小堀浄運。胎内には竹姫が書写した名号一万遍が納められ、須弥壇(しゅみだん)の床下には竹姫の御髪が納められている。

「地蔵堂」・「地蔵堂門」

「地蔵堂」

<国登録有形文化財(建築物)>

天明8年(1788)に建立され、寛政12年(1800)に増築して現在の姿となった。正面の扁額には、祐天上人の本地身の地蔵菩薩像が祀られていることを示す「開山本地堂」と記されている。本尊の地蔵菩薩像は、寛政9年(1797)に信州松本の光明院より遷座された。延命と火消しのご利益があるとして信仰を集め、特に江戸町火消から信仰を寄せられ、地蔵堂外陣の天井には町火消各組の纏が描かれている。江戸町火消の崇敬を伝える「地蔵堂」は「国登録有形文化財(建築物)」となっている。

「地蔵堂門」

<国登録有形文化財(工作物)>

嘉永4年(1851)に建てられた薬医門形式の建築。天井鏡板は、火消組の纏7種の薄肉彫りにした独創的な意匠。「国登録有形文化財(工作物)」。

火消組の纏7種の薄肉彫りにした

独創的な意匠の天井鏡板

「地蔵菩薩像」

祐天上人への報恩のため、祐天上人300年御遠忌法要が行われた平」成29年(2017)5月に開眼された。作者は大仏師の長岡和慶師。祐天寺地蔵堂の「本地身地蔵菩薩像」を石で模刻したもの。背中には祐天上人の名号が刻まれている。

「かさね塚」

祐天上人が累(かさね)という女性の怨霊を成仏得脱させた伝説は、歌舞伎をはじめとするさまざまな芸能作品の題材となった。この「かさね塚」は、累物舞踊の1つである「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」(4世鶴屋南北作「法懸松成田利剣」の一幕)が復活上演され好評を博したことを記念して、大正15年(1926)に6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元延寿太夫らによって建立されたもの。

「子まもり地蔵」

淺野六蔵氏の発願により、昭和18年(1943)に建立。子どもの百日咳や疳の虫封じにご利益があるとして信仰されている。

「海難供養碑」

<目黒区指定有形文化財(歴史資料)>

江戸時代に「灘なだの樽回船」と、関西の木綿問屋仲間「白子組」の回船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で台風にあい、たびたび沈没した。その遭難者のために江戸の商業問屋仲間が建立した海難供養碑である。いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東、自筆の名号が刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定される。その碑文により、たび重なる海難の事実を知ることが出来る。また、それぞれの碑は、船籍所在地における史的事実の裏づけがある。近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究の貴重な資料である。目黒区教育委員会掲示より ~下記案内板より転載~

「祐天上人墓」

<東京都指定有形文化財(旧跡)>

祐天上人が遷化されてから6年後の享保9年(1724)に造立。「東京都指定有形文化財(旧跡)」。墓塔は、縫い目のない卵形の無縫塔と呼ばれるもので、塔の下には日本全国60余州の霊山霊地から集めた土が納められている。また、六角形の台石には、祐天上人を荼毘に付した際に舌根が焼け残ったことなどの奇瑞が刻まれている。

「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」

「宝篋印陀羅尼経」を納める塔のこと。この塔に一香一華を供えて礼拝すればあらゆる罪障が消滅し、この世では厄難から逃れて長寿を得ることができ、死後は必ず極楽に生まれ変わると信仰された。

「大正天皇生母(柳原一位局:柳原愛子)の墓」

<目黒区指定文化財>


祐天上人の

独特な書体の「南無阿弥陀佛」の文字と御朱印

寺務所で

「南無阿弥陀仏の飴🍬」をいただきました!!