諏訪大社


諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社。信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされている。歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれている。 諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がなく、代りに「秋宮」は、一位の木を、「春宮」は、杉の木を御神木とし、「上社」は、御山を御神体として拝している。古代の神社には社殿がなかったとも言われていて、つまり、諏訪大社はその古くからの姿を残している。また、諏訪大社は、社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えている。そして、諏訪明神は、古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また、武勇の神として広く信仰され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの人が参拝に訪れる。 上記、各神社紹介文は、信濃國一之宮諏訪大社HPより抜粋。  -2017.09.22-

「四社まいり」パンフレット

諏訪大社 上社 前宮 (長野県茅野市)


前宮御本殿は、内御玉殿から200m程上段で、古くは神殿に附属したお社。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられている。現在の社殿は1932年(昭和7年)伊勢の神宮の御用材を以て建られたもの。

御柱

四社いずれも御柱を見ることはできるが、4本すべての御柱を触れてまわれるのは、「上社の前宮」だけ。三之御柱の写真だけ見当たらず😢。


名水「水眼(すいが)」の清流

古くから「すいが」と呼ばれ、山中より湧出する清流は、諏訪大社前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔からご神水として大切にされた。中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。この水眼の源流はこれより約1Kmほど登った山中にあるが、昭和5年に著名な地理学者「三沢勝衛先生」によってはじめて科学的調査がされ、その優れた水質は「諏訪史」第二巻に取り上げられている。~安国寺史友会設置の説明版より転載~

諏訪大社 上社 本宮 (長野県諏訪市)


JR中央線上諏訪駅から東南へ6km、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座我国最古の神社の一つであり、信濃國の国造りをなされたのち、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになり、信濃國一之宮として皇室武門および一般の信仰が厚く、全国一万有余の諏訪神社の総本社。「幣拝殿」と「片拝殿」のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式。徳川家康が造営寄進したと言う「四脚門」など貴重な建造物が数多く残っている。六棟は国の重要文化財に指定。

信州が生んだ名力士

「雷電為右衛門の像」

「神楽殿」

文政10年(1827)の建立。色々な神楽が連日行われていたようだが、残念なことにその神楽は現在絶えている。中にある大太鼓は江戸時代のもので唯今では大晦日のみ打たれる。

「土俵」

「勅使殿」「五間廊」

<国重要文化財>

「大欅(おおけやき)」

樹齢約千年と言われる大きな欅。

境内でも最古の樹木の一つ。

「本宮二之御柱」

「入口御門」

<国重要文化財>

文政12年(1829)建立。上社宮大工棟梁である原五左衛門親貞とその弟子藤森廣八が建築し、巧緻な彫刻が施されている。

回廊「布橋(ぬのばし)」

<国重要文化財>

「大国主社」(摂社)

「東御宝殿」

「西御宝殿」


「四脚門」

<国重要文化財>

本宮最古の建物。慶長13年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門ともいう。東西宝殿の間に建立されている。

「拝所」へと続く「堀重門」

「手水石」

「拝所(参拝所)」

「幣拝殿」

<国重要文化財>

左右に片拝殿が続く"諏訪造り"と呼ばれる独自配置で、本殿を持たない。天保6年(1835)に左右「片拝殿」「脇片拝殿」とともに、宮大工 二代目立川四郎富昌と地元の宮大工 原五左衛門親成によって上棟された。

写真転載:諏訪観光連盟

御朱印


「交通安全祈祷殿」

「高島神社」

諏訪大社 下社 春宮 (長野県諏訪郡下諏訪町)


JR中央本線下諏訪駅から北西へ約1km、「秋宮」から西へ1kmの位置で旧中仙道沿に鎮座。上社へは諏訪湖を隔て約13km。 入口の御影石の大鳥居は1659年(万治2年)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われている。神楽殿と拝殿、左右片拝殿及御宝殿と続く建物の配置は「秋宮」と同じ。神楽殿は修改築が幾度となくなされている。「春宮」と「秋宮」の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違うがその構造は全く同じで、春秋両社の建築は彫刻に於て技が競われている。「春宮」の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、「秋宮」より後から着工して一年早く1780年(安永9年)に竣工した。

出典:下諏訪観光協会

鳥居

「幣拝殿」

<国重要文化財>

この建物は御幣を奉ずる「幣殿」と「拝殿」が一体となったもので「幣拝殿」と呼ばれている。建築様式は二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。棟梁は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門で「秋宮」と同じ絵図面で「秋宮」「幣拝殿」より一年早い安永9年(1780)に落成した。春秋両宮は社殿構造は同じで当時は双方で技術が競われた。

春宮二之御柱

「神楽殿」

御神前にお神楽を奉納するための建物で、落成は江戸時代前期天和年間(1681~1684)ころのものである。

ご神木「結びの杉」

この杉の木は先で二又に分かれているが根元は一つになっていることから『縁結びの杉』と言われています。 ~案内板より~

御朱印


「春宮」の境内を出て、「万治の石仏」に向かう。清流は砥川。川の中にある島は「浮島」と言い、どんな大水にも流れず下社七不思議のひとつ。お社は「浮島社」と言い、清め祓いの神を祀り6月30日の大祓式、夏越の祓いはここで行う。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で体を清め八島高原へ登山したと伝えられている。

万治の石仏


明暦3年(1657年)、諏訪高島三代目藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時のこと。石工がこの地にあった大きな石を使おうとノミを打ち入れたところ、血が流れ出た。驚き恐れた石工は大鳥居の造作を止め、あらためてこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、霊を納めながら建立したのがこの石仏だと伝えられている。建立した願主が、万治3年(西暦1660年)と刻まれていることから、万治の石仏と称されることとなった。~下諏訪観光協会HPより抜粋転載~

1. 正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
2. 石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
3. 正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する

諏訪大社 下社 秋宮 (長野県諏訪郡下諏訪町)


JR中央線下諏訪駅の東北約1km、「春宮」からも東へほぼ1kmの地点で、旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座。 鳥居を入って正面の大きな木は根入の杉と呼ばれ樹令は約八百年の御神木。 身長1.70m、青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた「神楽殿」は、三方切妻造りで1835年(天保6年)立川和四郎二代目富昌の作。「御社殿」は、「神楽殿」の奥で、二重楼門造りの「拝殿」と「左片拝殿」及び「右片拝殿」が横に並ぶ。これらの建物は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており、現在の建物は、1781年(安永10年)春に立川和四郎初代 富棟の棟梁で落成した。

出典:下諏訪観光協会

「幣拝殿」

<国重要文化財>

この建物は御幣を奉ずる「幣殿」と「拝殿」が一体となったものである。二重楼門造りと呼ばれ、二階は跳匂欄(先の反った欄干)を回し全体に見事な彫刻が施されている。諏訪髙島藩の命により安永10年(1781)に初代(立川流)棟梁立川和四郎富棟によって造営された。

「神楽殿」

<国重要文化財>

御神前に神楽を奉納するための建物で天保6年(1835)上社本宮幣拝殿を手掛けた立川和四郎二代目富昌により落成した。三方切妻造と呼ばれる様式で、幣拝殿のような彫刻は見られない。正面の大注連縄は御柱祭毎に新しく奉製され重量は約1tである。両脇の狛犬は、身長1.70m、青銅製では日本一と言われる。

「秋宮二之御柱」

「温泉手水」

「根入りの杉」

この杉の木は樹齢凡そ6~7百年で丑三つ時になると、枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ、子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれている。

御朱印



諏訪の湯宿 ~萃sui ~(長野県諏訪市湖岸通り)


展望露天風呂「綿雫」

諏訪湖を一望する展望露天風呂。

湯浴みを着て、諏訪湖を眺める。

露天風呂から夕陽

朝にも入浴

室内露天風呂

内風呂

"諏訪湖ビュー 源泉露天風呂付客室"

75m²の広々としたお部屋。露天風呂と内風呂の二つ、主室となる和室と天然木を使用したフローリングの寝室😊

食事は完全個室の料亭会場で