鎌倉大仏殿高徳院 (神奈川県鎌倉市長谷)


「高徳院」(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人(1133 ~1212年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院。「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像が。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。その造立が開始されたのは建長四年(1252年)。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられている。その後、大仏殿は台風や大津波のため倒壊し、室町時代の末までには今の「露坐の大仏」に。鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋。 小学校の遠足以来の再訪です。 -2018.05.16-

境内図

鎌倉大仏殿高徳院HPより転載

「仁王門」

当院の山号「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭、内部に安置された一対の仁王像とともに他所より移築されたものと伝えられている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~

上記写真:鎌倉大仏殿高徳院HPより転載

「鎌倉大仏」

「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられている。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていない。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができる。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみた。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750 年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~

哀愁ただよう後姿

 「蓮弁」

大仏像の背後には青銅製の「蓮弁」4枚が安置されている。これらは江戸中期に蓮台の製作を企図して鋳造された。当初全32枚の製作が予定されていた「蓮弁」のうち、完成をみたのが同4枚に当たり、表面には寄進者の名前が刻まれている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~

「藁草履」

大仏像に向かって右側の回廊内壁に常陸太田市松栄町(旧郡戸村)に活動拠点を置く松栄(まつざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ大きな「藁草履」がかけられている。この草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供達によって始められた。松栄町会はその事績も後世に伝えつつ、1956年以降、3年に一度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けられている。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~

「観月堂」

15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物で1924(大正13)年、当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈された。鎌倉観音霊場23番札所ともなっている当山では、今日この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像を安置している。~鎌倉大仏殿高徳院HPより抜粋転載~

石碑・歌碑 17 「与謝野晶子 歌碑」

"かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は 

美男におはす夏木立かな" 晶子

御朱印