みどりの散歩道 碑文谷・立会川コース


目黒区の「みどりの散歩道 碑文谷・立会川コース」がある。コースは、東急東横線学芸大学駅から「碑文谷公園」、「こども動物広場」・「ボート場」、「清水池公園」、「サレジオ教会」、「すずめのお宿緑地公園」、「碑文谷八幡神社」、「圓融寺」、「宮野古民家園」、「立会川緑道」、東急目黒線西小山駅まで。

新型コロナウィルス感染予防対策のため、平日を選び上記コースの自宅の近所を散策することにしました。「圓融寺」、「碑文谷八幡神社」、「すずめのお宿緑地公園」、「サレジオ教会」までを散策してみました。-2020.05.01-

みどりの散歩道 碑文谷・立会川コース

立会川と緑道

碑文谷・清水の両池を水源にして目黒区南部を流れ、やがて東京湾に注ぐ立会川。かつてこの川には小魚が群れ、両岸には青々とした水田が広がって、のどかな田園風景が見られた。しかし都市化とともに川も姿を変え、昭和39年暗渠に。その後、散策が楽しめる緑道に生まれ変わった。目蒲線西小山のガード下そばから碑文谷八幡宮まで、その長さは約1㎞。春には両側の桜並木が見事な"桜のトンネル"をつくり、花見客で賑わう。また、緑道の各所には雪見橋、月見橋など、川の流れとともに姿を消した橋の名を刻んだ石の親柱が再現され、昔の面影をかすかに偲ばせている。~下記案内板より転載~

圓融寺(円融寺)(東京都目黒区碑文谷)


円融寺

寺伝によれば円融寺は、仁寿3年(853)に慈覚大師によってこの地に開かれた天台宗法服寺がそのはじまりです。弘安6年(1283) 日蓮上人の高弟日源上人により天台宗から日蓮宗に改宗しました。この時に寺号も妙光山法華寺と改めて、以後約400年の間にわたり栄えた名刹でした。しかし、いわゆる不受布施の教養を強く主張したため江戸幕府の弾圧を受けることとなり、元禄11年(1698)に元の天台宗にもどされました。そして天保5年(1834)に、山号寺号を経王山円融寺に改め今日に至っています。正面に立つ優美な姿の「釈迦堂」(国指定重要文化財)は室町時代初期に建てられたもので、東京都23区では最も古い木造建築です。境内には他に、寛永20年(1643)に鋳造された「梵鐘」(国重要美術品)、仁王門(区指定文化財)に安置されている木造金剛力士立像(都指定文化財)や、日源上人の事績が刻まれている「日源上人五十石塔」(区指定文化財)などがあり、また本堂には中世宗教史研究上貴重な歴史資料である「円融寺板碑」(区指定文化財)があります。目黒区教育委員会~下記案内板より転載~

「山門」

昭和26年(1951年)に品川御殿山の

原邦造邸から移築された。

「参道」

「仁王門」

<区指定有形文化財(建造物)>

三間一戸、八脚、入母屋造、茅葺(現在は銅板葺)で、用材は主に欅と檜を使い、和様に唐様をとりいれた建築様式で、細部の虹梁、蟇股、懸魚などにも彫刻的装飾が多く施されている。

「扁額」

「黒仁王尊」

<東京都指定有形文化財(彫刻)>

木造金剛力士像は、永禄2年(1559)、鎌倉扇ヶ谷(おうぎがやつ)の権大僧都大蔵法眼によって造られた。東京都の有形文化財に指定されている。江戸時代中頃は霊験あらたかな「碑文谷の黒仁王」「黒仁王」として人々から親しまれ、大勢の参拝客で賑わっていたと伝えられている。※「黒仁王尊」は、ガラス張りになっているため写真撮影ができなかったので「圓融寺」HPより転載しました。

写真出典:圓融寺HP

「釈迦堂」

<国指定重要文化財>

国の重要文化財に指定されている東京都区内最古の木造建築。建築年代は室町時代とされている。唐様建築の手法に和様を取り入れた優美な様式を今日に残している。たおやかな曲線をもつ入母屋造りの屋根は、もとは茅葺きだったが、昭和27年銅板に葺き替えられた。

「阿弥陀堂(本堂)」

「鐘楼」「梵鐘」

<国指定重要美術品>

「日源上人五重石塔」

<区指定文化財>

「圓融寺」の前身である「日蓮宗法華寺」の開基日源上人(~1315)の供養塔。総高は約4.4メートル。碑文によると、日源上人の追善供養のため寛永13(1636)年に建立され、その後文化11年(1814)に再興されている。この石塔は、軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石が高く、そのため雄大な五重塔となっている珍しい例。各軸石には、上から「妙」「法」「法」「華」「経」と刻まれ、最下層の軸石には出来や造立者などが刻まれている。

「円融碑」


碑文谷八幡宮(東京都目黒区碑文谷)


この神社は、旧碑文谷村の鎮守で、祭神は応神天皇です。畠山重忠(1205歿)の守護神を家臣筋の宮野左近という人がここに祀ったのがその起源だといわれています。創建年代は不詳ですが、「四神地名録」や「新編武蔵風土記稿」にも記されている由緒ある神社です。社殿は、延宝2年(1674)に建てられ、その後明治5年に再建、同20年に改築されました。本殿の右側に重忠の臣、榛沢六郎を祀った稲荷社があり、また碑文谷の地名の起こりとなったともいわれる梵字を刻んだ石(碑文谷)が保存されています。なお、当社には勝海舟筆の「額」や「のぼり」が所蔵されています。祭礼は春秋の2回で、昔ながらの”目黒ばやし”の音もなつかしく、みこしやだしも練り歩き賑やかです。目黒区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「一の鳥居」

「二の鳥居」

「三の鳥居」

「手水舎」

「本殿」

「末社 稲荷神社」

「碑文石(ひもんせき)」

この「碑文石」は、碑文谷の地名の起こりともなったといわれ当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として大切に保存に努めてまいりました。碑文を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。碑文石は近くの呑川の川床に露出していた上総(三浦)層の砂岩で、普通、沢丸石(さわまるいし)と呼ばれる石を材料としています。この碑の上方には、中央に大日如来(バン)、左に熱至菩薩(サク)、右に観音菩薩(サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子の板碑の一種とみられます。高さ七五センチ、横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、下部が下脹れのやや角張った形をしております。碑文石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたものと伝えられ、大日と異系の二種を合わせて表しているので、恐らく、室町時代のものとみなされます。江戸時代の名著、「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。碑文谷八幡宮  ~下記案内板より転載~

肝心の「碑文石」は、ガラス張りになっており反射してよく撮れませんでした💦

すずめのお宿緑地公園(東京都目黒区碑文谷)


「すずめのお宿緑地公園の由来」

この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群をなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として利用することができることとなったのです。ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。東京都目黒区 ~下記案内板より転載~


「すずめと少女のモニュメント」

カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)(東京都目黒区碑文谷)


「カトリック碑文谷教会」は通称「サレジオ教会」と呼ばれているように、カトリック東京大司教区から「サレジオ会」に委託された教会。 「サレジオ会」とはキリスト教・カトリックの男子修道会。「サレジオ会」は、19世紀にイタリアの司祭ヨハネ・ボスコによって設立された。 ~カトリック碑文谷教会」HPより抜粋転載~



上記写真:カトリック碑文谷教会HPより転載