上野恩賜公園散策


「上野恩賜公園」(通称:「上野公園」「上野の森」):明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で初めて公園に指定された。ここは、江戸時代、「東叡山寛永寺」の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いている。園内には、美術館、博物館、科学館、歴史的な建造物、動物園、日本史上貴重な功績を残した偉人たちの銅像などが数多くある。

病気平癒・健康祈願のお守りをいただくために「五條天神社」へ。「上野公園」内に鎮座しているため、せっかくなので公園内の名所、史跡を数か所散策してきました。 -2020.07.21-

五條天神社(台東区上野公園)


景行天皇の御代(71-130)、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為に上野忍ヶ岡を御通行の際、薬祖二柱に御加護をいただいた事に感謝し、茲に両神をお祀りなされましたのがご創祀。(約1900年前)旧社格は村社で、幾度かの遷座を経て現在は「上野公園」内に鎮座。病気平癒・健康祈願の医薬祖神を祀る神社であり、菅原道真公を起源にもたない天神さま。現在は菅原道真公を相殿として祀り、江戸三大天神や東都七天神の一社に数えられる。同じ境内に「花園稲荷神社」が隣接しており、それぞれ独立した神社(当社の兼務社)という形になっている。

「上野公園」内に鎮座

「不忍池」側から忍坂へ入る道が表参道

「鳥居」

大正15年(1926)に奉納

「狛犬」

大正15年(1926)に奉納

「手水舎」

屋根が方形、柱は八角堂と珍しい形

丸い蓮の花の形になっているのが特徴的

手水舎の天井

手水舎の屋根の上には“鳳凰”

「社殿」

昭和3年(1928)に遷座した時のものが現存

「社殿」前にも一対の青銅の「狛犬」

「神楽殿」

花園稲荷神社(台東区上野公園)


御創始の年月は不詳。古くから此の地に鎮座し、「忍岡稲荷」が正しい名称、石窟の上にあった事から俗称「穴稲荷」とも云われていた。承応3(1654)年、天海大僧正の弟子、本覚院の住僧晃海僧正が霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護の神とした。幕末、彰義隊の戦いでは最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られている。後、明治6(1873)年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、「花園稲荷」と改名、「五條天神社」が現地に御遷座になるに及び、「社殿」も南面して造営され神苑も一新された。縁結びのご利益のあるパワースポットとしても知られる。

「裏参道」

上野公園側の参道。石碑には「花園稲荷神社・五條天神社」参道と書かれている。

朱色の鳥居をくぐって、

「稲荷坂」を降りていく

稲荷坂

花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。 これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。 享保十七年(1732)の『江戸砂子』にその名が見え、明治二十九年(1896)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷へ出る坂路をいふ」とある。~下記案内板より転載~

「手水舎」

「社殿」

昭和3年(1928)に

再建した時のものが現存

「穴稲荷」

「穴稲荷」と呼ばれていた頃の名残であり、当社の聖地。江戸時代の頃の「社殿」はこちらに鎮座していて、現在は「穴稲荷」として整備。なお、「穴稲荷」の中は撮影禁止🚫ですが、柵の奥に進んで参拝できます。

上野大佛とパゴダ(台東区上野公園)


正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。最初の大仏は、越後(現新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永8年(1631)に造立した2m80cm前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。明暦~万治年間(1655~1660)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、3m60cmをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来坐像を造立した。その後、元禄11年(1698)、輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保14年には、最初の造立者堀直寄の子孫直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同9年、同10年の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和47年(1972)丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(1967)3月着工、同年6月に完成した。高さ15m、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。 台東区教育委員会 ~下記案内板より転載~

上野大佛

                    幾多の難を乗り越えた 「上野大仏」
この大仏は寛永8(1631)年、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(1655〜60年)木食浄運という僧侶により高さ6mの銅仏に改められました。また元禄11(1698)年には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治6(1873)年に大仏殿が解体され、さらに大正12(1923)年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。その後、「寛永寺」で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に提出されてしまいました。昭和47(1972)年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当初より大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。 ~下記案内板より転載~

大仏さまのお顔が鎮座

数々の災難に見舞われながらも、大仏さまのお顔だけの姿に「これ以上落ちない合格大仏」として、受験生や就活生に人気。

優しいお顔に見えます

「大佛パゴタ」

高さ15m。内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置。この薬師三尊像は、江戸末期まで「東照宮」境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により「寛永寺」に移管、さらに「パゴダ」の本尊として迎えられた。

清水観音堂 <国指定重要文化財>(台東区上野公園)


寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立された。天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺を見立てたお堂です。「清水観音堂」は、京都の「清水寺」の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、「清水寺」と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「摺鉢山」に建てられた。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、「寛永寺」総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。平成2(1990)年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。~清水寺観音堂HPより転載~

「本堂」

「手水舎」

手水舎の彫刻

「月の松」

独特の枝ぶりが特徴の「月の松」。江戸時代から庶民に親しまれており、江戸の名所を描いた歌川広重の連作浮世絵シリーズ「名所江戸百景」で「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の二枚に描かれている。明治初期の台風で消失したままとなっていたが、2012年(平成24)12月、150年ぶりに復活した。

円を描く「月の松」

不忍池辯天堂(べんてんどう)(台東区上野公園)


江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立された。
天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していった。これは、「寛永寺」というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味する。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたもの。こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守勝隆公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立した。琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられた。昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまったが、お堂は昭和33(1958)年に復興した。「辯天堂」にお祀りされるご本尊は「辯才天」。音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利益があります。琵琶を持ったお姿で知られていますが、「辯天堂」の辯天さまは八本の腕があり、手に手に煩悩を破壊する道具を意味する武器をお持ちになっている「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さま。~不忍池辯天堂HPより転載~

「不忍池」

夏は蓮の名所としても知られている

蓮の花が咲いています♪

「手水舎」

「本堂」

入母屋造りの「辯天堂」は、1868年(慶應4年)の上野戦争では焼けずに残ったものの1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で焼失。が、ご本尊の弁才天は無事で、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリート造りの八角堂が完成し、現在に至っている。

後部は八角形の形状

「宇賀神」

辯才天の化身で身体が巳(へび)の「宇賀神(うがじん)」という福の神。台座のプレートには“五穀豊穣 萬民豊樂 各願圓満 悉皆成就”と刻まれている。

「琵琶の碑」

福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている弁財天の琵琶を模してつくられた石碑。

「大黒天堂」

「辯天堂」には、谷中七福神とは別に「大黒天」がお祀りされている。こちらの大黒さまは豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説があり、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れ、今日に伝わっている。「大黒天」は、福を授ける神・福を招く神として知られ、家門繁栄や富貴をもたらすといったご利益がある。

「辯天堂」の周囲には様々な石碑がある

「ふぐ供養碑」