世田谷区散策Ⅱ(静嘉堂文庫美術館・旧小坂緑地・無名塾)


世田谷区散策Ⅰに続き今回は「静嘉堂文庫美術館」「瀬田四丁目旧小坂緑地」「無名塾」を歩いて巡りました♬ ご近所なのにこちらも初訪問。坂の多いこの近辺、アップダウンとずいぶんと歩きましたが、ご近所散策を楽しめました💦  -2021.03.16-

静嘉堂文庫美術館(世田谷区岡本)


静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。図書を中心とする「静嘉堂文庫」は、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。大正13年(1924)、ジョサイア・コンドル設計の「納骨堂」の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。~静嘉堂文庫美術館HPより抜粋転載~

噴水池のある前庭と美術館入口

【岩﨑家のお雛さま】展

3月3日は桃の節句。かわいらしい人形や小さな道具を飾り楽しむ「雛祭り」の風習は、江戸時代に広まり、現代まで連綿と続いています。三菱第四代社長・岩﨑小彌太(1879~1945)が孝子夫人(1888~1975)のために誂えた雛人形は、京都の人形司・丸平大木人形店によるものです。内裏雛は、白くつややかで丸い顔が愛らしい幼児の姿をしています。岩﨑家の替紋である花菱文が各所にあしらわれた雛道具は精緻に作られ、段飾りに花を添えたことでしょう。これら贅を尽くした岩﨑家の雛人形・雛道具は当時の技術の粋を集めた、貴重な美術工芸品といえます。

「静嘉堂文庫」

文庫の建物は、桜井小太郎(1870~1953)の設計により、大正13年(1924)に建てられた。鉄筋コンクリート造2階建スクラッチ・タイル貼りの瀟洒な外観は、当時のイギリス郊外住宅のスタイルを顕著に表している。"せたがや百景"(昭和59年選定)にも選ばれている(No.73 岡本静嘉堂文庫)原則として内部は非公開。

せたがや百景 73 岡本静嘉堂文庫

静嘉堂文庫は、岩崎弥之助 ・小弥太父子2代によって集められた和漢の古典籍 と古美術品とを蔵し、大正13年建築の文庫と平成4年竣工の美術館とから成る。多摩川を望む丘陵の上に立ち、深い樹林に包まれて四季おりおりの景観に恵まれている。

「静嘉堂構内案内図」

「庭園」

武蔵野の面影を色濃く残した庭園では、美術館南側斜面の梅園や美術館入口脇のギンモクセイなど、四季折々のさまざまな樹木や花々を楽しむことができる。

庭園は斜面に広がっている

天気の良い日は富士山も見られるそうです

「岩﨑家廟堂」<都歴史的建造物>

この奥にある青緑色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を創設した岩﨑彌之助の霊廟として建てられ、岩﨑彌之助、小彌太をはじめ岩﨑家代々の墓である。明治43年3月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって建てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館なども設計している。青銅の扉に刻まれている中国二十四孝のレリーフ並びに前面の大香炉は岡崎雪聲の作である。また森の奥には、松方正義の文と書による「男爵岩﨑君墓碑」がある。この霊廟は平成11年4月東京都により歴史的建造物に選定された。世田谷区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「納骨堂」

庭園内にある廟(納骨堂)は、桜井の師である英国人建築家、ジョサイア・コンドル(1852~1920)の設計によるもので、明治43年(1910)に建てられた。鹿鳴館の設計で知られるコンドルは、岩﨑彌之助の深川邸洋館(現・清澄公園内、現存せず)や高輪邸(現・開東閣)、三菱一号館(2009年復元、現・三菱一号館美術館)など、岩﨑家ゆかりの建物も数多く手がけている。

青銅の「狛犬」


「大香炉」

正面の扉のレリーフは、中国で古来親孝行の優れた人物として有名な24人のエピソードを表現した「二十四孝」が刻まれている。

一周してみると

「男爵岩﨑君墓碑」

彌之助を偲ぶ「男爵岩﨑君墓碑」と刻まれた雄勝石(おがついし)製の巨大な墓碑。松方正義の文と書による。背面には内閣総理大臣・加藤高明(岩崎彌太郎娘婿)や、松方正義、大隈重信といった名前が並ぶ。

「山林遊歩道」

階段を降りていく

「岡本静嘉堂緑地」

「岡本静嘉堂緑地」は、国分寺崖線の一画にあり、もとは岩崎家が所有する庭園であった。昭和20年頃までは庭園として維持管理がなされていたが、その後、人の出入りもなく、ほぼ自然状態のままにあったため貴重な自然が残されている。現在は区の管理地となっている。国分寺崖線にあり、照葉樹林が生い茂っている。

せたがや百景 71 岡本もみじヶ丘

綾錦のような紅葉に松の緑を点々と散りばめた秋景は息を呑むようで、多摩川八景(行善寺八景)の一つ「岡本紅葉」とうたわれた。今、開発の手から守ろうとする地元の熱意は強い所です。

「谷戸川」

瀬田四丁目 旧小坂緑地(世田谷区瀬田)


「瀬田四丁目旧小坂緑地」は、世田谷区の緑の生命線である国分寺崖線の斜面樹林の一部であり、園内には区指定有形文化財「旧小坂家住宅」と、紅葉と竹林が美しい湧水の流れる庭園があります。ここは、かつて衆議院議員などを歴任した小坂順造氏の別邸として利用されていました。多摩川が近く、国分寺崖線の緑が多いこの地域一帯には、明治から昭和にかけて建てられた別邸が多くありました。都心から玉川電車で往来できるこの辺りは、当時の財界人の週末住宅として絶好の立地でもありました。昭和12年に建てられた「旧小坂家住宅」は、別邸として現存する貴重な近代建築です。木造和風平屋建(一部2階建)で、萱葺き風の古民家を思わせる外観を持ち、南向きの斜面を利用した庭園と一体となった美しい景観を形成しています。また、庭園部分はコナラやトチノキなどの大きな樹木が武蔵野の雑木林の面影をとどめており、崖面からあふれる貴重な湧水は園内に潤いを与えています。散策路や木道を回遊しながら、国分寺崖線のみどりとみずを身近に感じられる空間となっています。ぜひお気軽にお立ち寄りください。 平成28年3月 ※この国分寺崖線の自然的環境を活かした「旧小坂家住宅」と庭園を後世に残すため、世田谷区が公園緑地として取得し、平成10年から一般公開しています。~下記案内板より転載~

表門

入って左側にある休憩所

「旧小坂家住宅」

<区指定有形文化財(建造物)>

指定年月日 平成11年11月24日 内訳:主屋一棟、中門及び塀一棟、表門一棟、裏門一棟、土地1,019,12㎡

附:棟札・昭和12年10月2日上棟の記のあるもの一枚、小坂順造レリーフ(銅製)T.SHIMIZU 1956の記のあるもの一枚 建築年代:昭和12年(1937)7月起工 昭和12年(1937)10月上棟 昭和13年(1938)9月竣工

この住宅は、衆議院議員などを歴任した小坂順造(1881~1960)が、別邸として建てたものです。立地する国分寺崖線を上手く利用した屋敷配置により、良好な住宅空間を演出しています。主屋は外観を和風、内部は各部で趣の異なった意匠でまとめ、別邸なれではの個人の趣向をこらした住宅になっています。特に玄関部分は古民家風の意匠をとっており、大正から昭和前期にかけて流行した民家風和風住宅を意識的に取り入れています。当時の政財界人の生活・文化意識を良く表しており、建築史、文化史を知る上で貴重な遺構です。また当時この辺りに多くあった別邸は、現存するものが他になく、地域史を知る上でも重要な住宅になっています。平成24年7月 世田谷区教育委員会 ~下記案内板より転載~

入口

裏庭広場から

玄関

「入側(縁側)」と「居間」

「茶室」

「書斎」

「内蔵」

「更衣室」

「寝室」

「洋室」の「サンルーム」

「照明」「真鍮のシャンデリア」

アンティークな感じ 


「中門」(庭園入口)

カタクリの花が咲いていました♬

「竹林」

「茶室跡地」

この家の近くに住んでいた画家・竪山南風の紹介で、横山大観夫妻が上野の池之端から疎開し、昭和20年3月から3ヶ月程この崖下にあった「茶室」で過ごしたという。

ミツマタが満開でした♬

「庚申塔」(二基)

左の庚申塔(三猿)は、宝永5年(1708)、右の庚申塔(一猿)は、元禄2年(1689)の築で、玉川4丁目36番に所在した幽篁堂庭園にあったもの。平成13年7月、庭園廃止に伴い、世田谷区に寄贈されこの地に移された。

「裏門」

無名塾(世田谷区岡本)


「無名坂」という名称を持つ坂道。坂上に仲代達矢氏主宰の「無名塾」があります。雰囲気のあるレンガの建物。

レンガ壁にある銅板レリーフ

若きもの 名もなきもの ただひたすら駆けのぼる

ここに青春ありき 人よんで無名坂

一九七五年始まる 無名塾 仲代達矢 隆巴