中央区散策(築地・佃島)


中央区明石町の「築地外国人居留地跡」から出発、「佃島」、隅田川沿いに「石川島公園」を散策しながら、江東区「越中島」へ。さらに清澄通りを歩き「門前仲町」を経由してゴールの「清澄白河」へ。GWのさなか、人混みを避けてまち歩き!!  -2022.05.02-

浅野内匠頭邸跡 <東京都指定旧跡>(中央区明石町)


常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。(中央区教育委員会) ~下記案内板より抜粋転載~

築地外国人居留地(中央区明石町)


安政5年(1858)6月、江戸幕府はアメリカと修好通商条約・貿易章程に調印し、これを原型として同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスともそれぞれ締結しました(安政五カ国条約)。この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)の開市を取り決めました。日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場・開市場の土地に設けられました。江戸(東京)の開市は、明治元年11月19日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に「築地外国人居留地」が設定されました。

「築地外国人居留地」は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、「築地外国人居留地」で発祥・開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展を続けており、当地区内には発祥を記念した石碑が数多く建てられています。文教地区として大きな特徴を持っていた「築地外国人居留地」は、条約の改正によって明治32年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成していました。~案内板より転載~

学校発祥の地 記念碑一覧マップ

~中央区民マガジンより転載~

アメリカ公使館跡石標 <中央区民文化財>(中央区明石町)


アメリカ公使館は安政6年(1859)ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8年(1875)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館となっている。最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカ国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。8個の石標のうち3個は昭和59年(1984)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、うち3個をここに、2個を聖路加ガーデンに設置する。1998年5月 聖路加国際病院 ~案内板より転載~

「アメリカ公使館跡石標」

聖路加病院 トイスラー記念館 <中央区民文化財>(中央区明石町)


昭和8年(1933)、トライスラー記念館は、隅田川河畔明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設された。設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設)が行った。建物の躯体は昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物。平成元年に解体工事が行われ、平成10年2月に現在地へと移築復元された。復元にあたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いている。外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠。室内は、チューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装が見られる。この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財。中央区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「聖路加病院」

日本近代文化事始の地


「慶応義塾発祥の地」(正面)と、「蘭学の泉はここに」(右奥)の二つの碑。この地は中津藩奥平家下屋敷があったところである。藩医だった前野良沢らが集まり、オランダ語の解剖書を翻訳、解体新書を出した。慶応義塾の創始者である福沢諭吉も中津藩士だった。

天ハ人の上に人を造らず

人の下に人を造らず

佃大橋(中央区明石町・湊 → 佃・月島)


昭和39年(1964)、江戸時代から300年以上続いた「佃の渡し」に代わって創架された。この建設に伴って佃島と月島の間に流れていた佃川が埋め立てられ2つの島は地続きになった。

高層マンション群と

双葉跳開橋の「勝鬨橋」

「佃大橋」から

「中央大橋」とスカイツリーを臨む

佃島(中央区佃)


東京都中央区南東部、隅田川左岸にある旧地区名。隅田川が晴海運河とよぶ支流と分かれる河口の三角州からなる島であったが、その後の埋立てで、北の石川島、南の月島と地続きになった。現在の佃1丁目にあたり、石川島は佃1~2丁目にあたる。かつて名もなき小島であったが、江戸初期、徳川家康との縁故によって、摂津(大阪府)西成郡佃村の名主孫右衛門(まごえもん)が漁夫30余名を連れて移住し、郷里の名を島名とした。将軍家献上のシラウオや諸侯に納めた魚類の残りの雑魚を味つけして煮つめたのが佃煮で、江戸名物として現在に至っている。1646年(正保3)大坂の住吉大社の分霊を祀る住吉神社が建立され、祭りの際の佃囃子は江戸三大囃子の一つとされた。漁師町は幾多の災害を免れ、江戸の情緒を今日まで伝えている。対岸の明石町との間の佃の渡しは、最後の隅田川の渡しとして1964年(昭和39)まで続いたが、佃大橋の完成で廃止された。~日本大百科全書(ニッポニカ)「佃島」の解説~

1837年創業の「佃煮天安本店」

佃島渡船場跡 <中央区民文化財>(中央区佃)


佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲だった。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されている。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡し。明治9年(1876)には渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳船渡船となった。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたもの。昭和30年(1955)7月には一日70往復にもなったが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止された。渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されている。中央区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

住吉神社(中央区佃)


神功皇后三韓征伐の際、住吉三神の御守護により無事達成され、その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)にて、住吉三神を遥拝なさった。これが大阪佃の住吉の社(現 田蓑神社)の起こり。その後、天正年間より大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の漁業の傍ら田も作れとの命により、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すため神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めることとなる。

その後、家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保3年(1646)6月29日 住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀した。これが佃住吉神社の起源。~住吉神社HPより抜粋転載~

住吉神社略縁起

住吉神社の水盤舎と陶製扁額

住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治2年(1869)に再建され、同44年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治2年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の形式、また内側にも潮干狩りなど、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保12年(1841)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染めつけています。明治15年(1882)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。(中央区教育委員会)~下記案内板より転載~

「水盤舎」

<中央区民文化財>

明治2年に建てられた。四周の欄間には、佃島周辺を描いた浮彫が配されている。手を清める水盤は天保12年(1841)に木綿問屋の「白子組」から奉納された。

欄間には当時の佃島の風景が彫られている

「陶製扁額」

<中央区民文化財>

明治15年(1882)に陶器問屋から奉納された。珍しい陶器でできた扁額で、題字は有栖川宮幟仁(たかひと)親王の筆によるもの。

「龍神社」

文政5年(1822)に鎮座。その後天保9年(1838)に佃島の一角にあった龍神を祀る祠が合祀され、翌天保10年(1839)に日本橋白木屋に祀られていた大弁財天が合祀された。

立派な扁額

「入船稲荷神社」

明治2年2月27日に鎮座。佃島(佃1丁目)にはこの他に「森稲荷神社」・「浪除稲荷神社・於咲稲荷神社」の三か所四社の稲荷神社が鎮座し、毎年初午祭が行われる。

「船魂神社」(ふなだまじんじゃ)

文久3年4月に鎮座。佃島の船大工が祭祀していたものを住吉神社へ遷座したと言われている。

「鰹塚」

昭和28年(1953)に東京鰹節類卸商業協同組合から奉納された。高さ3m(台座含む)の大きな塚で、鰹の大漁祈願と慰霊のために建てられた。毎年5月末に祭典が奉仕される。

「旧神輿庫」

明治44年(1911)の住吉神社大改修の時に建てられた。レンガ造り(イギリス積み)の蔵。現在宮神輿は入船稲荷神社の左側のコンクリートの蔵に新・旧ともに納められている。

住吉水門(中央区佃)


形式:鋼製単葉ローラーゲート。径間:4m×1連、門扉高さ:5.75m。竣工:昭和40年度。平成28年度に耐震化工事が完了し門扉等が新しくなった。

石川島人足寄場跡(中央区佃)


江戸時代末期の佃島・石川島

佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して 間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出し て一行を助け、ここに徳川家と佃島漁民の間に固い絆が結ばれることとなった。その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御采御用 を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、 江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築造し故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの 益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。この完成を最も喜んだのは近在漁師であった。このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。 中央区土木部公園緑地課 ~下記案内板より抜粋転載~

「石川島灯台」のレプリカ

中央大橋(中央区佃 → 新川)


隅田川に架かる橋で、中央区の新川2丁目と佃1丁目を結んでいる。橋長210.7m、幅員25.0mの斜張橋で、機能性を追求した昭和の橋と異なって、都市景観やデザインにも配慮した設計で、2本の角柱が斜めに伸びて塔頂部で接合され、さらに末広がりに伸びる「A形形式」。隅田川は平成元年にパリを流れるセーヌ川と姉妹関係を結んでおり、その関係でフランスのデザイン会社が設計。

石川島公園(中央区佃)


石川島播磨重工業(現・IHI)の造船所跡地に大川端リバーシティ21の一部として平成2年(1990)に開設された区立公園。「中央大橋」から「相生橋」の先までのL字型で、隅田川や晴海運河に接する。上段と下段の2段式で、上段の北側には御影石を敷き詰めた「パリ広場」がある。

「パリ広場」

平成11年(1999)の「日本におけるフランス年」を記念してつくられた広場。オブジェは"メモリアルタイムカプセル"。

「中央大橋」を背に

「永代橋」と東京スカイツリー

相生橋(中央区佃 → 江東区越中島)


隅田川の派川を渡る橋。橋下には隅田川唯一の水上公園である江東区立「中の島公園」がある。

「相生橋」を渡って江東区へ ⇒ 江東区散策(越中島・門前仲町・清澄白河)