向島下町散策


梅の花の便りを聞いて、向島百花園へ。梅の花とスカイツリー、雪吊りとスカイツリーなどいいショットが撮れました!! その後下記MAPを参考に「弘福寺」「三囲神社」「牛嶋神社」を参拝し、押上の「東京ソラマチ」へ。なお、この散歩コースは、松の内に巡った 東京下町三社参り と重なりますが、人の少ない境内をゆっくり散策できました。-2023.03.01-

向島百花園(墨田区東向島)


江戸の町人文化が花開いた文化・文政(1804~1830年)、骨董商を営んでいた佐原鞠鵜は、交流のあった江戸の文人墨客の協力を得て、当園を創設しました。開園当初には多くの梅が植えられ、その後、詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲く草庭となりました。百花園とは「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとされます。昭和13(1938)年、東京市に寄付され、翌年公開が開始されました。昭和20(1945)年の空襲では甚大な被害を受けましたが、昭和24(1949)年に復旧しました。昭和53(1978)年10月に国の名勝及び史跡の指定を受けました。向島百花園は、庶民的で文人趣味豊かな庭として、江戸時代より今日まで受け継がれてきた花園です。~下記案内板より転載~

園内MAP

出典:向島百花園パンフレット

梅洞水

白加賀

紅千鳥

藤棚から見えるスカイツリー

萩のトンネルと梅の花

日本橋石柱

日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。

きぶし(木五倍子)

キブシ科キブシ属の樹木で日本全国の山野に自生している落葉低木。早春に葉より先に小さな釣鐘形の花を連ねた房を枝に多数垂らす。

庭園奥の池の水面に映るスカイツリー

スカイツリーと雪吊りと梅

雪国では雪吊りは実用と装飾を兼ねているが、降雪の少ない東京では庭園に趣を添える装飾として採り入れられている。

御成座敷

百花園には早い時期から、身分の高い武家や僧侶の休憩場所として、数寄屋造りの「御成座敷」の一棟があった。この御成座敷は松尾芭蕉のファンであった酒井抱一の設計と伝えられている。創建当時の御成座敷は戦災によって焼失してしまったが、1958年に現在の集会施設として再建された。

福禄寿尊堂

百花園に集まる江戸の町民文化を代表する文化人達の発案で隅田川七福神巡りが考案され、佐原鞠鵜が本草の神として愛蔵し信仰していた福禄寿尊が、隅田川七福神の福禄寿尊として、百花園庭内に祀られている。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂に祀られる。

文化元年(1804)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠鵜が、福禄寿尊を祀っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもる神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神の始まりである。七福神の七という数は、陽を表す奇数であって、古くからめでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万性安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれである。墨田区 ~下記案内板より転載~

多賀神社

白髭神社(墨田区東向島)


由緒:天暦五年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年(1815)に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年(1907)には氏子内の諏訪神社を合祀した。

 

隅田川七福神:当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髭の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。~下記案内板より抜粋転載~

諏訪社

山玉向島講社碑

<墨田区登録文化財>

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治8年(1875)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正11年(1922)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には『奉納基本金 大正11年3月』と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして当時の世話人22名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢82名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師『大番城』の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。墨田区教育委員会

~下記案内板より転載~

弘福寺(墨田区向島)


黄檗宗(本山は教徒万福寺)の名刹。松雲作といわれる釈迦如来像を本尊とし、山門、本堂の屋根などに唐風の建築様式をみることができます。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにありました。鯉魚の大魚板、根付、咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」などがよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいます。隅田川七福神の布袋尊を祀っています。~すみだ観光サイトHPより転載~

山門

山門裏側

本堂(大雄寳殿)

<墨田区有形文化財>

七堂伽藍の整った寺であったが、江戸時代の度重なる大火や関東大震災で焼失し、現存の本堂等は、昭和8年(1933)に再建された。木造本瓦葺入母屋造重層建築。

本堂鬼瓦

鐘楼

梵鐘は、貞享5年(1688)に鋳造されたもので、墨田区最古のものとされている。墨田区有形文化財。

咳の爺婆尊

境内右手に風外和尚禅師(寛永年中の人)自刻の父母の石像がある。風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれている。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしていたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀らしめたもの。風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めている。人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしが伝わっている。~弘福寺HPより転載~

七福詠碑

「弘福寺布袋尊 何々や袋の中の年の卒 七福詠」

境内から見るスカイツリー

-山門横にある案内板-

淡島寒月旧居跡 

父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。1884(明治17)年、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。1893(明治26)年頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。収集家としても有名で、梵雲庵には3000余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。~下記案内板より転載~

三囲神社(墨田区向島)


弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地よりも北の田んぼの中にあった。文和年間(1352~56)に近江の三井寺の僧でもある源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲(みめぐり)」の名がつけられた。三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成21(2009)年に旧三越池袋店からシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。

日照りが続いていた元禄6(1693)年、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に読み込んだ「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている~下記案内板より転載~

2023.1.6に参拝しました。境内詳細は 東京下町三社参り(Jan.2023) へ。

牛嶋神社(墨田区向島)


貞観2年(860)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈(隅田公園内)の東側にあった。昭和7年(1932)に墨田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3年(1251)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743〜1822)の『いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹』の句碑などがある。五年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。~下記案内板より転載~

2023.1.6に参拝しました。境内詳細は 東京下町三社参り(Jan.2023) へ。

東京ソラマチ(墨田区押上)


ソラミ坂から見上げるスカイツリー