多摩古道・町田里山散策


京王電鉄相模原線・小田急電鉄多摩線の「永山」駅からスタート。「諏訪永山ふれあいの道」から「多摩よこやまの道」、「布田道」、「小野路宿里山」といろんな"道"をテーマに散策。多摩丘陵、鎌倉古道、小野路宿里山の秋を感じてきました♬ -2022.11.19-

京王・小田急永山駅

永山北公園(多摩市永山)


公団住宅100万戸供給記念時計塔

遊歩道・多摩よこやまの道

総合案内版

諏訪永山ふれあいの道


永山駅から南に歩き、「諏訪けやき坂」を過ぎると、「諏訪永山ふれあいの道」に出る。多摩東公園から諏訪、永山、貝取、豊ヶ丘を横断する、車歩分離のゆったり歩ける遊歩道。「多摩よこやまの道」へ向かう。

中諏訪橋からの眺め

諏訪第六公園脇

諏訪の谷通り

諏訪南通り

市立諏訪小学校前

多摩よこやまの道


川崎市や町田市との市境、多摩丘陵の尾根道に当るこの道を「多摩よこやまの道」と名付け、散策路として整備。この尾根道は古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶ交通の要衝として活用されてきた。この東西に伸びる尾根筋には鎌倉古道(古街道)が南北に交差し、その痕跡が各所に残され、またさまざまな伝説等も語り継がれている。古代~中世~江戸時代に渡って政治、軍事、文化、産業、社寺参詣などを目的として、東国西国間の交易を行う商人や武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人・官人、また幕末には新選組ゆかりの人々も行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道。2015(平成27)年、新日本歩く道紀行「歴史の道」100選に認定された。

「多摩よこやまの道」案内

多摩市HPより転載


エコプラザ多摩前から「多摩よこやまの道」に入り、「もみじの広場」よりスタート。


多摩よこやまの道

UR都市機構HPより抜粋転載

もみじの広場


古代東海道と丸山城

相模の国府と武蔵の国府を結ぶ古代東海道

「かつて日本の古代にも、ローマの道のように全国から都に集る大道(道の最大幅12m)が7本あった」 これは近年の研究で判明しつつある成果です。飛鳥時代後半から平安時代初期にかけて、都と東国とを結んでいた古代東海道は江戸時代の道筋とは異なり、相模の国府と武蔵の国府を結び、多摩丘陵の町田市から多摩市付近を通っていました。この道は唐(中国)の制度にならって造ったと考えられ、防人や朝廷の軍隊、特別な任務を持った官人たちが頻繁に行き来し、税納物や朝廷直営の牧から選ばれた良馬が多摩丘陵から都へと運ばれていたと想像されます。古代東海道は多摩市連光寺本村の打越山遺跡から発見された道路跡(道幅9~12m)や、馬引沢にあった「大曲」という谷、諏訪団地の中央を通っていた「沖の谷戸」という細長い谷、 給食センター上の畑地や近くの「並列する古道跡(複線の古道跡)」につながるとみることもできますが、現在のところそのルートは未だ確定されるには至っていません。

丸山城と烽火台/もみじの広場

この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。~下記案内版より抜粋転載~

防人見返りの峠


よこやまの道の中ほどにある「防人見返りの峠」は、防人の妻が詠んだ万葉集の歌にちなんだもの。大宰府に向かう防人が故郷を振り返り最後の別れを惜しんだというこの峠からは、富士山や丹沢、奥多摩や秩父の連山が眺望できる。

東西に伸びる弓なりの尾根道/展望広場

この尾根の高台は、東西(左右)に伸びる多摩丘陵の長大な尾根の上にあり、その全体が弓なりになっているのが見えます。この尾根は西は町田市相原町を経て津久井郡城山町の城山湖にある後方高台の「三沢峠」、東は多摩川に面した多摩市連光寺向ノ丘まで通じています。あわせて全長約24kmの尾根となり「多摩丘陵の背骨」とも呼ばれています。

富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、西武ドーム(狭山丘陵)も見られる丘

この丘は標高約145mで南西~北東にひらけた展望ポイントです。西方は夕景が美しく、富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、北西方向には多摩川や浅川に面した七生丘陵、広大な武蔵野の向こうには遠く狭山丘陵も眺望できます。ここから見る風景は太古以来の先人たちも繰り返し眺めてきたことでしょう。多摩ニュータウンの建設に伴い約1千カ所の遺跡発掘が行われました。現在のニュータウンの下にはるか昔、縄文時代のニュータウンが存在したことがわかったともいわれています。歴史ある豊かな農村から新しい街へ-多摩川とその支流の恩恵に育まれ、大地と接してきた人々により永々と暮らしが営まれてきました。今、その穏やかな風景がよみがえってきます。~下記案内版より抜粋転載~

晴れていましたが、

くっきり富士山は見えず…

分倍河原合戦と県境の尾根

「梅松論」の記述やこの付近の伝説から元弘3年(1333)5月14日、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ分倍河原合戦の前夜、多摩川の北に陣取った新田義貞の大軍を迎え撃つべく鎌倉を出発した北条泰家軍二十万騎の大軍勢は、当時小山田庄(荘)内であったこの尾根の川崎市側に篝火を焚いて息を潜めて野営し、翌早朝から多摩川で大激戦に突入したと考えられます。~下記案内板より転載~


いったん「多摩よこやまの道」を離れ、多摩給食センター前交差点から永山第四公園の「一本欅」を見に行く。


一本欅(多摩市永山五丁目)


「永山第四公園」の芝生が広がる公園内の丘の上には、空へと枝を伸ばすように一本の見事な欅(けやき)の木が立っている。きれいに黄葉していました。

逆光でも撮ってみました。

「多摩よこやまの道」に戻る。

右手に東光寺の千手観音像

竹林

鎌倉街道「別所」の交差点に到着。街道を横断して布田道へ入る。

布田道


布田道(ふだみち)は、調布の布田宿から小野路までの間道である。かつては鎌倉街道の関所があったとされ、かつては関屋城砦もあったと言われ、城の空壕跡や鎌倉古道の跡も残されている。幕末には新選組が通り、小島道場へと出稽古に訪れた道であり、沖田総司が病気に罹った際には、馬の背に乗りこの道を通って江戸に向かったとされている。

「関屋の切り通し」に向かう

関屋の切り通し(町田市小野路町)


「此道は布田道にて、幕末に近藤勇らが通いし道に御座候 是より関屋を経て二町程にて小野路宿に着き申し候」~下記案内板より転載~

振り返ってみる

「小野路宿」に進む

小野路宿方面に進むと、鎌倉街道と大山街道が交差する宿場町の町並みに出る。

「小野路宿」の町並み散歩をする前に「小野路宿里山」を散策。小野路バス停手前を左に曲がる。

小野路宿里山周辺


小野路宿里山交流館周辺散策ガイドマップ

ビニールハウス

「浅間神社」へ

浅間神社(町田市小野路町)


明治時代末、小野神社に合祀されたものの昭和26年(1951)、この場所にもどった。

参道と鳥居は斜面下のほうに

奈良ばい谷戸方面へ

炭焼き小屋

奈良ばい谷戸

田んぼの再生がすすめられている

竹林

図師小野路歴史環境保全地域

この地域は東京都条例により指定された保全地域。ここでは、貴重な野生の生き物が生息する豊かな里山の自然環境を保全するため、地域住民からなる管理組合によって維持管理を行っています。また、地域内には農家をはじめとする民有地があり、農業や日常的な管理が続けられています。なお、地元農家の管理組合が都と契約して伝来の農作業を行い、新しい入会の姿を築いたことが評価され、「にほんの里100選」に東京で唯一選ばれています。~下記案内板・東京都環境局HPより抜粋転載~

小野路城址跡

小野路城址は現在の大泉寺の場所に居城(小山田城)を構えていた小山田有重が築いた副城で、その子・二郎重義が守護にあたったという。築城は承安年間(1171~1174)といわれ都内の古城址の中でも最も古いものの一つである。現在残っている地形から本丸を含む二つの郭(くるわ)とそれを囲む土塁、空堀からなっていたと想像される。(東京都)

六地蔵

小野神社(町田市小野路町)


小野路は鎌倉みちの宿駅として鎌倉と武蔵の国府の於かれた府中に通じる要衝の地にある。宿の入り口にある小野神社は、小野篁の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の靈を祀ったことに由来する。小野篁は、平安時代前期の人で和漢に優れた学者で、学問の神様であり、菅原道真の先輩にあたる。篁の孫小野道風は、平安時代を代表する書家で三蹟として有名である。なお、小山田氏の小野路城があった城山には、小野井戸と伝えられる遺址もあり、小野氏との関連が深い地である。応永十年(1403)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した、朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に多摩市の塩沢貞氏によって復元寄進され、拝殿の右側面に設置されている。神輿は小野神社神輿保存会によって修復事業が行なわれ、昭和六十年九月に奉納された。~下記案内板より転載~

小野路宿(町田市小野路町)


小野路の歴史

「小野路」の地名由来は諸説あります。「大日本地名辞書」によると平安時代の牧場地帯「小野牧」(現在の八王子市から日野市、府中市、稲城市、多摩市、町田市北部を含む地域)への入口、「武蔵名勝図会」によれば武蔵七党の一つ横山党の祖である小野氏との関係によるものと考えられ、「鶴川村誌」では「小野郷」(現在の府中市域への道筋ともいわれています。小野路は長い歴史を通して交通の要所で、江戸時代に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、また江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人々で賑わう宿場となっていました。江戸時代には近隣の25ヶ村をまとめる組合村の寄場として見張番屋が置かれ、明治時代には登記所や郵便局などの公的施設ができ、小野路は地域行政の中心的役割も果たしました。この案内板は江戸時代に法令を板面に記して村民に周知させるために高札場(現在地)に設置された「高札」をイメージして制作・設置したものです。(町田市) ~下記案内板より転載~

小野路宿略図

(江戸時代後期)

小野路宿の町並み

街道沿いに小野路川が流れる


小野路宿里山交流会館(町田市小野路町)


「小野路宿里山交流館」は、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿の一軒の旅籠、旧「角屋(かどや)」を改修し、観光交流の拠点として再整備した。

交流館名物の大根干し

10日ほど干したら沢庵にするそうです