大磯邸園散策


かねてから行きたかった「旧吉田茂邸」とともに、「明治記念大磯邸園」を見学に大磯へ。残念ながら、明治150年記念公開「明治記念大磯邸園」は、邸宅ガイドツアーの予約が取れず、「旧大隈重信邸」、「旧陸奥宗光邸」の庭園の観覧のみでした。 -2018.12.21-

「旧吉田茂邸」 (神奈川県中郡大磯町国府本郷)


「旧吉田茂邸」は、戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅。もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのが始まり。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎ、昭和20年(1945)より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごした。2009年に消失したが、2017年4月1日に再建され公開された。本施設は吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したもので昭和22年頃建てられた応接間棟、および昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建している。~「大磯郷土資料館・旧吉田茂邸」HPより転載~

内門(兜門)<国登録有形文化財(建造物)>


軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれる。また、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたことから、別名「講和条約門」とも言われている。屋根には「檜皮葺き」というヒノキの立ち木から剥いだ表皮を成型した檜皮を用い、少しずつずらしながら重ね、竹釘で固定していく伝統的技法が用いられている。 ~下記案内板より抜粋転載~

旧吉田茂邸の再建

旧吉田茂邸は、吉田茂の養父、吉田健三氏が、明治17年に別荘として建築したもので、その後、増改築を重ね、吉田茂が昭和19年ごろから、その生涯を閉じる昭和42年、89歳までを過ごした邸宅でした。豪壮で近代的な数寄屋檜作りの本邸は、建築家吉田五十八氏の設計のもと、京都の宮大工により建築されました。政界引退後も多くの政治家が「大磯詣」を行い、また、国内外の要人が招かれるなど、近代政治の舞台ともなりました。平成21年3月、旧吉田茂邸は焼失してしまいましたが、大磯町が再建し、平成29年4月より、一般公開されました。~下記案内板より転載~

「サンルーム」

<国登録有形文化財(建造物)>

館内案内図

応接間棟


昭和20年代、吉田茂が内閣総理大臣であった時代に建てられた棟。2階の書斎には、官邸直通の黒電話が置かれていた。また、大磯の船大工が関わったという舟形の浴槽も建物の一部として再現されている。

「楓の間」

昭和22年(1947)頃、当時内閣総理大臣であった吉田茂が執務室として建てた棟で、1階の部屋は「楓(かえで)の間」と呼ばれていた。部屋には吉田と客人が談話するためのソファーセットが置かれており、応接間も兼ねていた。

「書斎」

吉田茂の私室。この2階部分は、限られた身内以外は許可なく入ることができない吉田の私的な部屋。掘り炬燵がある空間は、吉田の書斎として使われていた。掘り炬燵の向かいにあるガラス棚下の地袋には、吉田邸から首相官邸を直接繋ぐダイヤルのない黒電話が置かれており、また、北側には舟形の風呂がある。この風呂の作成には、大磯の船大工が関わったといわれている。

「浴室」

「吉田茂の白足袋オブジェ」

新館


昭和30年代、吉田茂は海外からの賓客を迎えるため、「新館」を増築することを決め、著名な建築家・吉田五十八に設計を依頼。この「新館」は、近代数寄屋建築と呼ばれる建築様式をもちい、和と洋が融合された近代的な造りとなっている。応接間であった「金の間」からは、吉田が愛した富士山だけでなく、箱根の山々と相模湾も一望できる、素晴らしい羨望となっており、また、吉田が最期を迎えた寝室「銀の間」では、亡くなった当時のベッドを再現している。

「食堂(ローズルーム)」

食堂として使用されていた部屋で、別名ローズルームともいう。アール・デコ調の室内が特徴。

「金の間」

賓客を迎えるための応接間として利用されていた。「金の間」という名称は、部屋の装飾に金を用いたことからきている。「金の間」からは、箱根山や富士山といった山々と太平洋とを一望することができる。吉田茂はこの部屋から見える富士山を大層気に入っており、毎日のように眺めていたそうです。

「銀の間」

吉田茂が寝室として寝起きをしていた部屋。この部屋のベッドで吉田はその生涯を終えた。「銀の間」の装飾品には銀を使用しており、「金の間」と対になる形で、その名称の由来となっている。吉田はこの部屋を書斎としても利用しており、部屋のガラス棚には蔵書が並べられ、ベッド横の窓際には執務用の机が置かれていた。

日本庭園


昭和36年頃に完成した「日本庭園」は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園。庭園設計者である中島健は、数奇屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好をふまえ、さまざまな草花やツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭造りをおこなったと考えられる。

七賢堂 <国登録有形文化財(建造物)>


元々、明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたもの。伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となった。昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」に。「兜門」や「食堂(サンルーム)」とともに、焼失を免れ、旧吉田茂邸の歴史を感じさせる貴重な建築物。正面の扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相によるもの。

七賢堂

七賢堂は、明治36年、伊藤博文の自邸、大磯の「滄浪閣」に建立されたものです。はじめ、明治維新の元勲のうち、岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允の四人が祀られた「四賢堂」でした。その後、伊藤博文が祀られ、昭和35年には吉田茂がこの地に移設し、西園寺公望を合祀し、吉田茂本人も死後に合祀され、現在の「七賢堂」となりました。正面の扁額「七賢堂」の文字は佐藤栄作の揮毫によるものです。~下記案内板より転載~

明治記念大磯邸園


明治期の立憲政治の確立等に関する歴史的遺産の保存・活用を行い、一体的な空間として後世に伝えるため、「明治150年」関連施策の一環として、「明治記念大磯邸園」が整備されることになりました。大磯には伊藤博文や大隈重信の邸宅等の歴史的遺産が集中して残されています。「旧伊藤博文邸(滄浪閣)」、「旧大隈重信邸」や「旧陸奧宗光邸」等の庭園の観覧、邸宅のガイドツアーとともに、明治期の立憲政治や各邸宅の人物にゆかりのある資料の展示を行います。今回は明治150年を記念した特別公開(2018年10月23日より12月24日まで)。~明治150年記念、「明治記念大磯邸園」パンフレットより転載~

パンフレット

旧大隈重信邸〈明治記念大磯邸園〉


「旧大隈重信邸」は、明治期に政治家・教育者として活躍した大隈重信が別荘として建設した建物。大隈重信は、明治15 年(1882)に立憲改進党を結成すると共に、東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設。明治31 年(1898)、自由党の板垣退助と日本で最初の政党内閣を組織し、総理大臣に就任。その前年に、大磯の地に別荘を構えた。現在は、東に隣接する旧陸奥宗光邸と合わせて庭園を含めた敷地面積は約8,000 坪、家屋は一部増改築がなされているが、庭に面する居室部分はほぼ往時のままで保存されている。社交家の大隈重信は、2 間の和室、計16 帖の大広間「富士の間」でよく宴会を開いたといわれている。

「西向きの玄関と車寄せ」

「富士の間」

「神代の間」

大隈重信公の五右衛門風呂」

大隈重信公は風呂好きだったことで知られています。大隈邸の南に20mほど、丘を下ったあたりに四畳半ぐらいの浴室と離れが会ったことが明治30年の「家屋位置及方位」に記されています。この「五右衛門風呂」は、その跡地近くから掘り出されたものです。「五右衛門風呂」は、底が熱くなるため裸足で入ることができません。明治22年に襲撃に合い右足を切断している大隈公はこのころ義足で暮らしていました。180cmもの長身であった大隈公は片足に下駄をはいて、小さくなりながら「五右衛門風呂」を楽しんでいたと思われます。また、明治時代に大磯の海水浴場が設けられたのは医学的な療養のためでした。このころ大隈邸と海岸は松林だけで直接つながっていました。邸から離れて海辺近くに浴室を設けたのは、海水浴場での治療のためだったとも推察されます。~庭園看板より抜粋~

「宇賀大神の碑」

「宇賀大神の碑」は、大隈重信公から邸宅を引き継いだ古河家が近隣の人々と共に商売繁盛の神として祀ったと伝えられています。宇賀大神とともにあるクスノキの巨木は枝が八方に伸びて、あたかも千手観音が手を広げているように見えることから御神木のようにあがめられています。~庭園看板より抜粋~

枝が八方に伸びるクスノキの巨木

旧陸奥宗光別邸〈明治記念大磯邸園〉


「旧陸奥宗光邸」は、明治期に政治家として活躍した陸奥宗光にゆかりのある別荘。陸奥宗光は、明治27 年(1894)に自身の療養のため大磯に別邸を構えた。陸奥は、明治25 年(1892)に第2 次伊藤博文内閣の外務大臣に就任すると、明治27 年の不平等条約の改正、翌年の日清戦争勝利に貢献。しかし、外務大臣として多忙の日々が続き、持病の肺結核が悪化、伊藤博文の進めもあり明治28 年(1895)5 月から療養。療養中には日清戦争の備忘録「蹇蹇録けんけんろく」を執筆、後世に語り継がれる名著となっている。しかし、療養中にも日清戦争の戦後処理などで多忙が続いたこともあり、明治30 年(1894)に54 歳で亡くなった。その後、宗光の次男で、古河市兵衛の養子潤吉が当別邸を譲り受け、関東大震災で建物が損傷したため、大正14(1925)年に建替えられ、現存する入母屋の数寄屋風の建物は、以前の原形を残して再建され、「聴漁荘(ちょうぎょそう)」と名付けられています。この建物と西館の間には竹林や果樹園、北東側には稲荷様があり、前面には広い庭園があり、松林、海へと続いている。

「聴漁荘」

「漁の声を聴く荘」の意味。「学を漁り(あさり)聴く荘」の意味とも云われる。揮毫は円覚寺・大徳寺管長の太田晦巌。

「 鹿鳴館の華」と称された美貌の夫人。息子もイケメン!!

「大観腰掛岩」

陸奥宗光亡き後の別荘を引き継いだ古河家の床の間には、流れ落ちる滝を描いた「飛泉」掛けられています。描いたのは近代日本画の巨匠、横山大観であり、古河家に招かれた際、歓待のお礼として、庭にある滝を見て描きました。その時、大観が腰かけて描いた岩が「大観腰掛岩」とされています。~庭園看板より~


海辺へ降りてみました!!

旧島崎藤村住宅 -靜の草屋- (神奈川県中郡大磯町東小磯)


大磯駅より東海道線路沿いに徒歩 5 分。町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。 カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいた。また簡素を信条とする藤村の気配りが今も感じられる。~大磯町HPより抜粋転載~

大磯迎賓館 (神奈川県中郡大磯町大磯)


ランチは、神奈川県大磯町にある海が見渡せ、旬の湘南野菜やピッツアが楽しめるレストラン大磯迎賓舘」へ。2回目です!! 建物は、1912年(大正元年)、貿易商の別荘として建築された。久しく「三角屋敷」と呼ばれ、日本の木材で建てられた「国内最古のツーバイフォー住宅」として歴史的価値が高く、2012年(平成24年)2月23日に国登録有形文化財に登録されている。

大磯駅前洋館 旧木下家別邸及び新館並びに敷地

<景観重要建築物> <国登録有形文化財>

正面の洋館は旧木下家別邸と呼ばれ、切妻造スレートぶきで左右の屋根上にドーマー窓、各室にベイウインドウを設けているのが特徴です。大正元年に建設され、工法はいわゆるツーバイフォー工法で、国内最古の部類となる建築遺構でもあり、平成24年2月23日に国登録有形文化財に登録されています。緑豊かな土地に周囲環境と調和した風格のある佇まいは、新館と石垣を携えた敷地と一体となって、大磯の別荘文化を現代に伝える景観を形成しています。大磯町 ~下記案内板より転載~