広島平和記念公園 (広島県広島市中区)


「平和記念公園」は、旧太田川(本川)が元安川と分岐する三角州の最上流部に位置し、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して開設された都市公園。この場所は、江戸時代から昭和初期に至るまで広島市の中心的な繁華街でしたが、昭和20年(1945年)8月6日に人類史上初めて落とされた一発の原子爆弾により、一瞬のうちに破壊されました。被爆後、昭和24年(1949年)8月6日に公布された「広島平和記念都市建設法」に基づき、爆心地周辺を恒久平和の象徴の地として整備するため、昭和25年(1950年)から平和記念公園及び施設の建設がすすめられ、昭和30年(1955年)に完成した。公園内には、「原爆ドーム」、「広島平和記念資料館」、平和の願いを込めて設置された数々のモニュメント、被爆したアオギリなどがある。~広島市HPより抜粋転載~ “令和の平和な時代に改めて平和を祈り、願う。”-2019.12.03-

平和記念公園とその周辺

上記地図:広島市市民局国際平和推進部平和推進課

赤い鳥文学碑(鈴木三重吉文学碑)


「千鳥」「桑の実」などの名作によって明治大正期の文壇に生彩を放った鈴木三重吉(1882~1936)は、明治15年(1882)この地に生まれました。 大正7年(1918)少年少女のための雑誌「赤い鳥」を創刊し、日本最初の童謡童話が誕生しました。つづり方や自由詩を指導して児童の創造を高め、外国の名作童話も紹介し、わが国の児童文学の父ともよばれています。この碑は、昭和39年(1964)6月、被爆地ヒロシマの文化の復興のシンボルとして建てられ、平和への願いが込められています。圓鍔勝三の作品。左側の碑には三重吉の胸像が置かれ、台座には雑誌「赤い鳥」の表紙の字型をそのまま取って刻まれています。右側の碑の台座には三重吉自筆の「私は永久に夢を持つ ただ年少時のごとく ために悩むこと浅きのみ 三重吉」が刻まれています。 ~下記説明版より転載~

少年と少女が座る台座「私は永久に夢を持つ。たゞ年少時のごとく、ために悩むこと浅きのみ」の碑文 -三重吉筆-

原爆ドーム <世界遺産>


原爆ドーム」のもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により、大正4年(1915年)「広島県物産陳列館」として完成。建物はれんが造りの3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に楕円形のドームが載せられていた。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機により人類史上初の原子爆弾が投下され、広島市街地の中心部の上空約600mで爆発し、一瞬のうちに広島市街地の建物が倒壊し、多くの人々の生命がうばわれました。産業奨励館は爆心地から約160mの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼した。戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円盤鉄骨の形から、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。ほぼ被爆した当時の姿のまま立ち続ける「原爆ドーム」は、核兵器の惨禍を伝えるものであり、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として保存されている。~広島市HPより抜粋転載~

原爆死没者慰霊碑 (公式名:広島平和都市記念碑)


原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)は、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちから、埴輪(はにわ)の家型に設計された。中央には原爆死没者名簿を納めた石棺が置かれており、石棺の正面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというもの。中央の石室には原爆死没者名簿が納められている。~広島市HPより抜粋転載~

埴輪(はにわ)形の碑は、底辺4.7m、高さ3.7m、上部の長さ8.3m。設計は丹下健三氏。アーチ型のデザインが印象的。

原爆ドーム(奥)と一直線に並び立つ原爆慰霊碑

正面の石碑

碑文:「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

広島平和記念資料館


「広島平和記念資料館」は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するととともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介されている。ホームページには、“一発の原子爆弾が、無差別に多くの命を奪い、生き残った人々の人生を変えました。「広島平和記念資料館」は、被爆資料や遺品、証言などを通じて、世界の人々に核兵器の恐怖や非人道性を伝え、ノーモア・ヒロシマを訴えます”とある。本館は、平成18年(2006年)7月5日、わが国の戦後建築物としては初めて国の重要文化財に指定された。この建物は、丹下健三が設計し、国際的に高い評価を受けた最初の戦後建築であり、同氏の出発点となった作品。~広島平和記念資料館HPより抜粋転載~

観覧券

原爆の子の像


「原爆の子の像」は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに、同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ、全国からの募金により、1958年5月5日に完成した。年間を通じて、たくさんの千羽鶴がささげられていることから、別称「千羽鶴の塔」とも呼ばれている。像の高さは9mで、その頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託している。側面左右の二体は少年と少女と明るい希望を象徴している。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれている。塔の内部には、少年少女たちの気持ちに感動したノーベル物理学受賞者である湯川博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘がつられ、その下に金色の鶴がつるされ風鈴式に音がでるようになっている。~広島市HPより抜粋転載~


これはぼくらの叫びです 

これは私たちの祈りです 

世界に平和をきずくための

平和の鐘


1964年(昭和39年)9月20日、原爆被災者広島悲願結晶の会の手により、鐘造りの人間国宝香取正彦氏によって造られた。鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する国境のない世界地図が浮き彫りにされている。撞座は、原水爆禁止の思いを込めて原子力マーク、その反対側には、つく人の己の心を写し出す鏡が入れられている。1996年(平成8年)には環境庁(当時)の残したい日本の音百選にも選ばれた。

平和の鐘

この梵鐘、鐘堂は広島の悲願にたって、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつくりました。この梵鐘、鐘堂は平和を願う万人の心と浄財を結晶させてつくりました。この鐘の音を、広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の1人ひとりの心にしみわたらせることを願っております。

この趣旨、目的をご理解の上、平和への願いをこめておつきください。広島悲願の会 ~下記案内板より抜粋転載~

平和の時計塔


世界人類の恒久平和実現への願いの込められた高さ20mの時計塔。3本の鉄柱がそれぞれ60度ずつひとひねりした塔上に、球体の三方を向いた時計が乗っている。このデザインは、世界人類を象徴した球体がヒロシマ市民の深い祈りの手と、苦難を超えて無限に伸びていく平和への希望を表したもの。広島鯉城ライオンズクラブが原爆ドームの永久保存に呼応して建設したもので、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが鳴り、「ノーモアヒロシマ」を強く訴えている。このチャイム音は、環境庁の、「残したい日本の音百選」に1996年(平成8年)選定された。(平和記念資料館に展示され8月6日の平和記念式典で使用される鐘と「平和の鐘」を加えた全体の音風景が対象)

夕暮れの「原爆ドーム」を後に広島駅へ