文京区散策(東京都文京区)


本駒込から出発、湯島、小石川、後楽園まで訪れたことのない文京区を散策。文京区を熟知している友に導かれ、歴史と文化が香る文京区を堪能してきました。梅の季節ということもあり梅の香りもほんのり♬ -2012.02.18-

大聖山東朝院 南谷寺(通称:目赤不動尊)(文京区本駒込)


南谷寺」は、神社仏閣と学校が多い文京区の本郷通りに面したところにあり、創建は元和年間、開基は万行律師と伝えられております。万行律師という方は比叡山南谷の出身で後に南谷寺の寺名もこれに由来しております。万行律師は常に不動明王を信奉し、ある時、比叡山を下り今の三重県赤目山にて修行をかさね1寸2分の不動明王を授かり江戸に赴いたのであります。当初は駒込動坂(堂坂)に庵を結び赤目不動尊として日々民衆を教化致しておりましたところ、この駒込動坂近くには将軍家鷹狩りの場があり当時の目黒・目白にちなみ目赤不動と改称するよう申し渡されたのです。

「南谷寺本堂」

「目赤不動尊」

この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615〜24)万行和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。寛永年間(1624〜44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関口二丁目にあった。文京区教育委員会 ~下記案内板より転載~

高林寺(文京区向丘)


慶長元年(1596)に神田に創建され、同九年にお茶の水に、また、明暦の大火後に現在地に移転したといわれている。第二次世界大戦で本堂を消失したが、最後の空襲の後すぐに再建された。神田に在った際に一夜境内に突然清泉が噴出、三代将軍家光にお茶用の水として提供したことから「お茶の水」という地名がおこったという。 墓地内には、幕末期の蘭学者緒方洪庵の墓や明治・大正期の歌人岡麓の墓がある。

「緒方洪庵墓」<区指定史跡>

洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年−文3年(1810−63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々齋塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉などが輩出した。洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)病没した。 文京区教育委員会 ~下記案内板より転載~

常徳寺(文京区本駒込)


建蓮社立誉善達上人が寛永7年(1630年)開山、幡随院七世貴譽萬量が寛文2年(1662)湯島切通に起立したといい、天和3年(1683年)当地へ移転したといいます。

「本堂」

「六地蔵」

梅が満開!! いい香りです♬

「身代わり地蔵尊」

徳源院(文京区本駒込)


海禅寺を開山した勅徳賜無礙浄光禅師大和尚(寛永10年寂)が開山となり、寛永7年(1630)湯島に創建、天和2年(1682)当地へ移転したといいます。

光源寺 駒込大観音(文京区向丘)


天正17年(1589)に神田に創建され、慶安元年(1648)に現在地に移転。境内には元禄10年(1697)造立の御丈約5mの十一面観音像があり、東京大空襲で焼失したが、平成5年に御丈6m余の御像として再建。

「本堂」

「光源寺観音堂」

「蓬莱梅」

紅梅満開!!

夏目漱石旧居跡 <区指定史跡>(文京区向丘)


夏目漱石 本名・金之助。慶応3年ー大正5年(1867-1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった(家主は東大同期の斎藤阿具氏)。当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、「猫の家」と呼ばれ親しまれた。この地で『倫敦島』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上のへ観潮楼へ移っていった。二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。文京区教育委員会 ~下記案内板より転載~

夏目漱石の旧居跡(猫の家)に立つ碑

題字:川端康成書

左隅にうずくまる猫

塀の上を歩く猫の像

東京大学赤門 <国指定重要文化財>(文京区本郷)


加賀藩13代藩主前田斉泰は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えた。この門は、その際に建立された御守殿門。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を「御守殿門」と呼んだ。

麟祥院(文京区湯島)


当山は寛永元年(1624)春日局の願により三代将軍家光公の台命で、当地に境内地一万坪寺領三百石の御朱印状を拝領し徳川秀忠の御明御殿を賜り、殿堂を造立し、報恩山天澤寺と号しておりました。はじめ、局の甥にあたる神龍和尚が住職しましたが、病気のため退院し、寛永七年野州宇都宮の興禅寺の渭川和尚の高徳であるのを局が聞き、当山の住職として拝請され開山となりました。その節、春日局の菩提所として、寛永十一年(1634)家光公より武州豊島郡柏木村(現新宿北新宿)の内に寺領百石を香華料として寄進され、後に豊島郡駒込村(現文京区本駒込)の内に弐百石ご寄進され合わせて三百石の寺領となりました。局は麟祥院殿仁淵了義尼大姉の法号を受けました。後に将軍家光公は春日局の法号をもって寺号とするように命じた為「天澤山麟祥院」と改号しました。~麟祥院HPより転載~

春日通り沿いに建つ"春日局之像"

「山門」

「書院」

「中門」

「本堂」

「三」のご紋は、春日局の嫁ぎ先である稲葉家の"隅切角に三"のご紋

手水鉢にも"隅切角に三"のご紋

春日局墓所 案内図

"春日局"

幼名は福。父は明智光秀の重臣齋藤内蔵助利三、母は刑部少輔智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母として召出され3千石を賜りました。家光公が将軍職に就くために献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽力致しました。寛永五年家光公二十五歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は齊戒沐浴して東照宮大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は身の終わるまで針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。寛永六年京都へ上り御所に参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を賜りました。同九年再び台名に依り上洛し、明正天皇より従二位に叙せられまして、寛永二十年(1643)九月十四日 六十五歳で卒し、当院墓地に葬られました。 文京区 ~下記案内文より転載~

「春日局の墓」<区指定史跡>

春日局(天正7年~寛永20年・1579~1643)は、三代将軍徳川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。そして、それが契機となり大奥の制度が確立された。この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺はそのまま菩提寺として法名にちなみ「天澤山 麟祥院」となる。墓地奥にある局の墓は、無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形をしている。

扉に徳川家の"三つ葉葵"と

稲葉家の"隅切角に三"のご紋

「春日局の墓石」の四方及び台石には、夫々穴が穿ってある。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」と言う春日局の遺言に衆議して建立したものだそうです。

嫁ぎ先の「稲葉家の墓」

湯島天満宮 湯島天神(文京区湯島)


雄略天皇2年(458)に創建され、1355年に菅原道真公を勧請し、以来多くの学者、文人に崇敬され、現在では学問の神様「湯島天神」として全国的に有名な神社。現社殿は平成七年に総檜造りで造営された。2月から3月上旬にかけては、境内に植えられた数百本の梅の木が花をつけ、春の訪れを楽しむことができる。

梅と狛犬

梅とメジロ

霊光殿菅公千年祭記念碑」

傳通院(文京区小石川)


当山は、応永22年(1415) 浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川四丁目)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。それから約二百年後の慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母於大の方が75歳で、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿-二代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍徳川家光公の正室)、於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。当山には開創六百年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。

「本堂」

「於大の墓」<区指定史跡>

享禄元年-慶長7年(1528-1602) 徳川家康の生母、三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘、天文10年(1541)岡崎城主・松平忠広と結婚、翌年に家康を生む。後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。東京都文京区教育委員会

「千姫の墓」<区指定史跡>

慶長2年-寛文6年(1597-1666) 二代将軍秀忠の娘 慶長8年(1603) 幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。元和元年(1615) 城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。東京都文京区教育委員会

「孝子の墓」<区指定史跡>

慶長7年-延宝2年(1602-1674)、孝子は三代将軍徳川家光の正室、前関白鷹司信房の娘、元和9年(1623) 京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。寛永2年(1625) 家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。東京都文京区教育委員会

「徳川家の子女達のお墓」

源覚寺(文京区小石川)


「源覚寺」は、380年余り前の寛永元年(1624年)、定誉随波上人により現在地に開創。鎌倉時代の作と伝わる閻魔(えんま)の木像を寺宝に有している。閻魔さまは、冥界にあって亡くなった人の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も知られているひとりです。「源覚寺」の閻魔さまの右目部分は割れて黄色く濁っています。それにはこんな言い伝えがあります。宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。満願の日に、老婆の目は治りました。以来、大王の右目は盲目となりました。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを供えつづけたということです。このことから、「源覚寺」の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。

「閻魔堂」

<区指定有形文化財-彫刻->

閻魔堂に安置されている"木造 閻魔王坐像"は、文京区の調査によると運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と考えられ、銘文には寛文(1672)に仏師により修復されたことが記されている。(像高約1m・ヒノキ材の寄木造り)

「塩地蔵尊」

2体で1組のお地蔵さま。お地蔵さまの体に塩をつけてお祈りすると、体の同じ部分の病気が治るといわれています。「塩」ということで、お相撲さんもお参りに来るそうです。

「毘沙門天堂」

源覚寺の"毘沙門天"は

「小石川七福神」のひとつ

占春園(文京区大塚)


この辺りは、幕末までの200年ほどの間、徳川光圀の弟を藩祖とする陸奥守山藩松平家の上、中屋敷の地であった。占春園は、この屋敷内にひらかれた庭園の名残りである。、「林には鳥、池には魚、緑の竹と赤い楓、秋の月、冬の雪」と四季それぞれ庭の美しさでその名が知られ、当時の江戸三名園の一つに数えられていた。明治36年(1903)、東京高等師範学校(戦後の東京教育大学、筑波大学に改組)が湯島からこの地に移り、占春園は、校地の一部となった。現在は、筑波大学付属小学校の自然観察園として、同行が管理し、区民にも開放されている。文京区教育委員会 ~案内板より転載~