日光 史跡探勝路を歩く!! (神橋~滝尾神社~慈雲寺~浄光寺)


日光 史跡探勝路とは、"もう一つの日光"とか"裏日光"などと言われ、パワースポットとされているよう。 -2011.05.08-

神橋 (栃木県日光市上鉢石町)


二荒山(男体山)をご神体としてまつる「二荒山神社」の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋。奈良時代の末に勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の「蛇橋(じゃばし)」とも呼ばれている。

観音堂 (産の宮)(栃木県日光市山内)<県指定交佗有形文化財(建造物)>


この「観音堂」は、楊柳(ようりゅう)観音を祀ったものであり、別名「香車堂」「将棋っ駒」とも呼ばれる。将棋の駒の香車が戻らずに直進する駒なので、妊婦がこの駒を借りて帰り、自宅の神棚に祀ると、無地出産できるという安産信仰の社でもある。出産後は、借りた駒と共に新調した駒を一緒に返納するので、駒の数は増えるばかりである。~説明版より転載~ 

勝道上人の墓 (栃木県日光市山内)


日光開山の祖、勝道上人は「仏岩」で荼毘にふされた。当初上人の遺骨は、仏岩谷の上方に埋葬されたが、東照宮鎮座のおり、「開山堂」が建てられ、遺骨もここに移された。「五輪塔」の台石には「勝道上人之墓」と刻まれている。また、隣にある「三基の墓」は、上人の弟子のもの。~案内版より転載~

仏岩 (栃木県日光市山内)


「観音堂」の奥にある「仏岩」。頭上の岩壁に仏の姿をした岩が並んでいたのが、地震で岩が崩れて焼失し、「仏岩」の名のみが残ったともいわれる。岩壁基部のくぼみには、梵天、帝釈天と四天王のうちの三体、不動明王の石造、六体が並んでいる。~案内板より転載~

遊歩道は緑いっぱい!!

白糸の滝 (栃木県日光市山内)


天狗沢にかかる名瀑。高さ約10m。弘法大師修行の場と伝えられる。文明18年(1486)京都聖護院の道興准后が日光に訪れ、その時の紀行文「建国雑記」に次の和歌が詠まれている。「世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この滝尾の たきの白糸」 ~案内版より転載~ 日光二荒山神社の別宮「滝尾神社」の入口にあり、落ち着いた雰囲気がパワースポットとして有名な滝。

滝尾神社 (栃木県日光市山内)


「二荒山神社」本社の西に約1km、生い茂る木々の中に立つ。日光「二荒山神社」の別宮。本宮、新宮 (現在の「二荒山神社」)とともに日光三社権現の一つである。女峰山の女神、田心姫命を祀る。弘仁十一年(820)弘法大師が創建したと伝えられる。明治四年の神仏分離までは楼門に大師の筆といわれる「女体中宮」の額が掲げられ、仁王像が安置されていたという。正保三年(1646)の建立。四月の弥生祭の時には、「二荒山神社」から滝尾の神輿が渡御する。 ~境内案内板より転載~

「運試しの鳥居」

鳥居の小さな穴に石を3回投げ、

ひとつでも穴を通ったら良いことがあるといわれる

上記写真:栃木旅ネットHPより転載

上記写真:ニッポン旅マガジンHPより転載

本殿脇を進む

滝尾稲荷神社

日光二荒山神社別宮である滝尾神社境内に鎮座する滝尾稲荷神社。弘仁11年(820年)弘法大師が滝尾神社とともに創建されたと伝わる古社。

安産「子種石」の碑

子宝に恵まれ安産になるという

大猷院


大猷院(だいゆういん)とは徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ)(廟所=墓所)で、世界遺産にある境内では、登録された22件の国宝・重要文化財が建ており、315基の灯籠(とうろう)も印象的。

憾満が淵 (栃木県日光市匠町)


「憾満が淵」は、男体山が噴火したときの溶岩によって出来た奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句「カンマン」を取り、「憾満が淵」と名付けたという。晃海はこの地に、「慈雲寺」や「霊庇閣」、不動明王の大石像を建立したもので、往時は参詣や行楽の人々で賑わった。元禄二年(1689年)松尾芭蕉も、奥の細道行脚の途中に立ち寄っている。「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると「かんまん」と澄んで読むのが正しい。 ~案内板より転載~

慈雲寺 (栃木県日光市匠町)


承応三年(1654)、「憾満が淵」を開いた晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。当時の建物は明治35年(1902)9月の洪水で消失し、現在の本堂は昭和48年復元された。 ~案内板より転載~

「山門」

並び地蔵 (栃木県日光市匠町)


山道にはずらりと並ぶ地蔵群がある。正式名称は「並び地蔵」だが、別名は「化け地蔵」。数えるたびに数が異なり参拝者を化かすという不思議な謂れから、そう呼ばれるようになったという。地蔵群は日光山を再興した慈眼大師天海の門弟たちが彫ったと伝えられており、かつては100体ほどあったが、明治35年の大洪水で一部が流失し、現在は約70体が残っている。

浄光寺 (栃木県日光市匠町)


菅笠日限地蔵尊が安置されています。日を限って願い事をすると、必ずかなえられるというので、日限地蔵の名がある。石の菅笠をかぶった珍しいお姿をしている。奉行所から命じられた開墾奉仕に出られぬ病気の老人に代わって、この地蔵が子供に姿を変えて勤めてくれたという伝説がある。~案内板より転載~

手入れが行き届いている境内

「閼伽」(あか)

山門の脇にある「閼伽」(あか)という水。「閼伽」とは、仏前に供養される水のこと。サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水と訳される。

日光田母沢御用邸記念公園 (栃木県日光市本町)


日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部 分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営された。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿に。昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になり、戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園へ。

〈おまけ〉 帰りに見た建設中のスカイツリー