東京下町三社参り


"東京下町八福神参り"にプラスして同行のお友達ご推奨の三社を参拝しました。八福神の「今戸神社」近くの「待乳山聖天」、言問橋を渡って「三囲神社」、「牛嶋神社」へ。三社ともに由緒ある神社仏閣で先に参った八福にさらなるご利益をいただけた気がします!! でも、松の内であったため、人が多くゆっくり参拝できず…。再訪したい三社でした。-2023.01.06- 

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待乳山聖天(台東区浅草)


浅草寺の北東、隅田川西岸にある待乳山は、標高約10mの丘である。ここに伽藍を構える待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、正式には本龍院といい、浅草寺の支院のひとつである。縁起によると、推古天皇3年(595)9月20日、一夜のうちに涌現した霊山で、その時金龍が舞い降り山を廻り守護した。その後推古天皇9年(601)の夏に、干ばつのため人びとが苦しみあえいでいたときに、十一面観音の化身である大聖歓喜天が姿を現して人びとを救済し、聖天さまとして祀られたのが草創という。待乳山の聖天さまは霊験あらたかなことで古来より知られており、身体健全、夫婦和合、商売繁昌にご利益があるとして篤い信仰を集めている。本堂では毎朝、浴油祈祷という聖天さま独特の秘法を厳修している。また、待乳山は広い江戸の平野にある小高い丘であることから、古くから名所として文人墨客に愛され、多くの絵画や歌の題材となった。歌川広重の絵に描かれている築地塀も境内に残っている。~浅草寺HPより抜粋転載~

大根まつり

昭和49年(1974)より、毎年正月七日に"大根まつり"を行い、元旦にご本尊様にお供えされた大根を、フロふきにし調理して、御神酒と共にご参詣の皆様に振る舞われる。なお、2023年は感染症対策のため例年通りではなく「お下がり大根」と「ゆず味噌」を法要終了後に持ち帰るかたちでの開催となり、お神酒の配布は行われないとのこと。残念ですが、今日は1月6日。

手水舎

本堂

大根奉納

大根は清浄、淡白な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています。私たちはそのお下がり(おさがり)を頂くことによって、聖天様のお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来ます。

社務所でお供え大根を購入(任意)

本堂でお供えし、本堂脇で"お下がり大根"をいただく。

お下がり大根

前日お供えした大根に「御供物」の印を押したものを配布しております。どうぞご自由にお持ちください。なお赤のインクは食紅を使用しておりますので、安心してご使用ください。

大根と巾着

境内各所には大根と巾着の印が見られるが、大根は身体健全、夫婦和合、巾着は財福の功徳を表わしたものとされる。特に大根は心身を清浄にする聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、聖天さまのご供養に欠かせないお供物とされている。

上記写真:浅草寺HPより転載

階段の側面も大根と巾着

出世観音

学問、芸能、立身出世、商売繁盛の観音様

神楽殿

正月3が日、大根まつり、節分、毎月のご縁日に、駒崎社中による神楽が奏される。 大きめの行事には舞も入る。

歓喜地蔵尊

子育てのお地蔵様として信仰されている

三囲神社(墨田区向島)


弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地よりも北の田んぼの中にあった。文和年間(1352~56)に近江の三井寺の僧でもある源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲(みめぐり)」の名がつけられた。三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成21(2009)年に旧三越池袋店からシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。

日照りが続いていた元禄6(1693)年、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に読み込んだ「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている~下記案内板より転載~

社号碑には旧字体の「三圍神社」

二之鳥居

本社 <墨田区登録文化財>

境内の中心に建つ三囲神社本社は、木造桟瓦葺(さんかわらぶき)権現造の神社建築。本殿虹梁(こうりょう)・海老(えび)虹梁に刻まれる文様や、正面向拝(こうはい)の板蟇股(いたかえるまた)また、鳳凰(ほうおう)、本殿の屋根形状の力強さなどに江戸時代末期の特徴を見ることができる。建築年代は、棟札(むなふだ)から安政大地震後の文久2 年(1862)と考えられる。棟梁は平野忠八で、明治17 年(1884)には、平野芳太郎が大修繕を行った。その痕跡は、拝殿の東側付属屋の増設や拝殿水引虹梁などの彫刻にうかがうことができる。芳太郎は、江戸時代末期の建築に基本的改変を加えず踏襲した修理を行い、良好に保存された。すみだ文化財・地域資料データベースHPより抜粋転載~

上部の彫刻

扁額

三つ穴石燈籠

三囲神社最古の石造物。宝永3年(1707年)伊賀上野城主・藤堂高睦の奉納。火袋に三点の穴が開いている。

宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)

<墨田区登録文化財>

元禄6年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人室井其角(たからいきたく)が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自撰句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。室井其角は寛文元年(1661)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永6年(1777)に建立されたものが摩滅したので、明治6年(1873)に再建されたものです。墨田区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

三越の社紋が入った台座

(右)越は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壺の台石に彫られ、越の雛形といわれる。明治29年から昭和の初期まで実際に使われていた。

(左)ライオンは東洋的意匠の狛犬に変化したのだが、三越のライオン像も狛犬のように神前を守っている。

三囲のライオン像

三越の旧池袋店から移した三越のシンボルであるライオン像は大正3年、当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み三越本店に一対のライオン像を据えたのにはじまる。戦後、本店の像をもとに各支店に設置されている。ライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオン像である。なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は、大いに発展し明治29年三越呉服店につながる。~下記案内板より転載~

ライオン像

石造狛犬 <墨田区登録文化財>

肩にかかる巻毛と体全体の筋肉や骨格が強調されている。吽形(うんぎょう)の台座裏面に刻まれた銘文から、石工和泉屋太郎介が手がけたことがわかる。また阿形の台座には奉納者121名の姓が各氏1行ずつ充てられて彫られている。奉納者が多数であることから、三井家ではなく越後屋に出入りする人々により建立、奉納されたものと考えられている。すみだ文化財・地域資料データベースHPより抜粋転載~

石造神狐 <墨田区登録文化財>

三囲神社は、稲荷社であることから、狛犬に代えて、稲荷神の使いとされていた狐の像が奉納されている。この神像は、元禄年間以降、三囲神社を篤く信仰する越後屋が納めたもの。目尻が下がった表情が特徴的なこの像は、阿吽の形式となっている。台座側面に刻まれた「向店」(むこうだな)は、この像一内を奉納した越後屋向店のこと。~すみだ文化財・地域資料データベースHPより抜粋転載~


三囲のコンコンさん

目尻のさがった温和な表情を ここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた。享和1年(1802)の奉納。

月読社 大國神・恵比寿神

三圍神社の別殿には、古くから大國、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人々によって支持された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として庶民の信仰を集め、その似通った御神徳から一対の神として崇められることが多い。大國を同じ音の大黒とも書く。~隅田川七福神コース案内板より転載~

社殿の右手奥に奉納鳥居と稲荷社が鎮座

白狐祠(びゃっこし)

老翁老嫗の石像

元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠(びゃっこし)を守る老夫婦がいました。願う事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どっからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と呼んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。

末社二社

スカイツリーが見える

三角石鳥居

三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある。正三角形平面に組み合わされている。

隅田川側の門

富士見稲荷社

顕名(あきな)霊社

三井家の先祖代々の霊を祀る祖霊社。彫刻の下絵は川端玉章。明治7年(1874)建。平成6年(1994)移築。

鬼平情景 三囲神社(三囲稲荷社)

三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。墨田区 ~下記案内板より転載~

牛嶋神社(墨田区向島)


牛嶋神社は、東京スカイツリーの氏神さま

牛嶋神社

貞観2年(860)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈(隅田公園内)の東側にあった。昭和7年(1932)に墨田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3年(1251)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743〜1822)の『いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹』の句碑などがある。五年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。~下記案内板より転載~

表参道に建つ鳥居

三輪鳥居(みわとりい)

明神(みょうじん)鳥居の左右に小さい鳥居を組み合わせた鳥居で、別名「三ツ鳥居(みつとりい)」ともいう。平成30年(2018)台風24号の強風にによって倒壊したものの、令和元年(2019)に再建された。

社殿

昭和7年(1932)に再建。総檜権現造り。

神楽殿(奥に手水舎)

参道の狛犬


獅子山の上の狛犬

狛牛

墨田区最古の狛犬-享保14年(1729)に奉納

こちらも古い狛犬

撫牛 <墨田区登録文化財>

撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。

明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。 墨田区教育委員会 ~下記案内板より転載~

包丁塚

社殿の右手に境内社「小梅稲荷神社」

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑(隅田公園 言問橋西側)


戦災により亡くなられた方々の碑

台東区浅草七丁目一番

隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。台東区~下記案内板より転載~

言問橋の縁石

ここに置かれているコンクリート塊は、1993年言問橋の欄干(らんかん)を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。~下記案内板より転載~