柴又散策Ⅰ


京成高砂駅から京成金町線(高砂、柴又、金町の3駅しかない路線)に乗り換え、「柴又」へ。「柴又」は、誰でも知っている映画「男はつらいよ」の寅さんの舞台として有名。柴又駅では寅さんの銅像がお出迎え!「帝釈天参道」を通り、「帝釈天題経寺」、「山本亭」、江戸川の「矢切の渡し」、参道に戻って創業250年の「川千家」でうな重をいただきました。 -2018.09.17-

寅さんがお出迎え♬

帝釈天参道


帝釈天 題経寺(東京都葛飾区柴又)


当山は、「経栄山題経寺(」日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。御本尊の片面には、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれ、 両脇には、法華経・薬王品の「この経はこれ閻浮提《仏教で全世界のことを言う》の人の病の良薬なり、 もし人病あらんに、この経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という経文が彫られてあり、 そしてもう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒の相をあらわした帝釈天御本尊が彫られてある。 これは悪魔降伏の尊形であり、即ち我々仏の教えを信仰し、従う者には、もし病難や火難、 その他一切の災難に遇えば、帝釈天が必ず守護し、この悪魔を除き退散させてくれると言うものである。 ~帝釈天題経寺HPより転載~ 題経寺参拝の後、帝釈堂の右手に国宝級ともいわれる「彫刻ギャラリー」と「大客殿」、「回廊」から見られる庭園の「邃渓園(すいけいえん)」を見学。-2018.09.17-

「二天門」

帝釈天の配下の四天王のうち、南方守護の増長天、西方守護の広目天を安置。明治29年(1896)、江戸期建築の最後の名匠と言われた坂田留吉棟梁によって造りあげられた、総欅造りの豪壮な門。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、桝組は、三手先、扇タルキの見事な出来映えは、この寺の建造物の中でも、ひときわ優れている。この二天像は、奈良大安寺にあった往古の文化財と伝えられ、奈良時代の造像。多くの木彫群によって荘厳された重厚優美な「二天門」は、門前通りの正面にそびえ立って見られる。

「帝釈堂」

日蓮大聖人が衆生の病を無くさんと、願いをかけて刻まれた板本尊を祀る「帝釈堂」は、名人、坂田留吉棟梁が仕上げた総欅造り。特に堂の周囲を法華経説話に取題した彫刻をめぐらして、まさに当山の山号である経栄山にふさわしい工夫は、入念の彫刻作品とともに無類の文化財になっている。

「端龍の松」(ずいりゅうのまつ)

<東京都指定文化財>

樹齢およそ500年、高さおよそ10m、

幹回りおよそ1.8mのクロマツ

「大鐘楼」

昭和30年(1955)、名匠、林亥助棟梁によって完成された総欅の「大鐘楼」。高さ約15m、四手先の豪壮な桝組と木彫を施し、関東一の鐘楼と言われる。梵鐘は、雅楽「黄鐘調(おうしきちょう)」と言われ、昭和の銘鐘の名が高い。環境庁選定「日本の音風景100選:柴又帝釈天界隈と矢切の渡し」の主役。寅さんの映画でも必ずこの大鐘楼の効果音が挿入されている。

「木鼻」の獅子

 「浄行菩薩」

法華経に説く地涌(ちゆ)の四菩薩の一人で、地水火風の四大の内、水大の菩薩としてこの世を浄化し、人々の罪や穢れを洗い清めてくださる。

彫刻ギャラリー


堂の内外には、数多くの木彫がほどこされているが、特に「帝釈堂」内陣の外側に彫られているものはガラスで仕切られ「彫刻ギャラリー」となっている。 十枚の胴羽目彫刻は、仏教経典の中でも最も有名な「法華経」の説話を選び出して彫刻したものであり、この法華経説話彫刻は、当山第十六世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次朗氏の丹精協力を得て大正末期より昭和九年に至る十数年の歳月を費して完成したものである。~帝釈天題経寺HPより転載~

「木鼻」の獅子

「塔供養の図」

金子 光清 彫刻

「三車火宅の図」

木嶋 江運 彫刻

「慈雨等潤の図」

石川 信光 彫刻

「法師修行の図」

横谷 光一 彫刻

「多宝塔出現の図」

石川 銀次朗 彫刻

「千載給仕の図」

加府藤 正- 彫刻

「龍女成佛の図」

山本 一芳 彫刻

「病即消滅の図」

今関 光次 彫刻

「常不軽菩薩受難の図」

「法華経功徳の図」

小林 直光 彫刻

「法師守護の図」

加藤 寅之助 彫刻

大宮殿と回廊・邃渓園(東京都葛飾区柴又)


「大客殿」と「回廊 」: 十六世日済上人の時に、芝の二本榎の名匠、鈴木源治郎氏の手によって1929年(昭和4年)に落成。百五十坪。用材は全て桧で、数百の材木の中から一本の材料と云うほど、材料を厳選して造営したものだそうである。この様な規模の木造建築は現在では構築不可能といえる。北側はガラス障子の広縁を巡らし、中央には物見台が設けられ名庭「邃溪園」と対坐する。「大客殿」廊下からつながっている「回廊」は、庭園「邃渓園」の外周をぐるっと廻っている。「頂経の間」には“日本一の大きさ”を誇る「大南天の床柱」がある。東京都の「選定歴史的建造物」。

「邃渓園(すいけいえん)」 :「 邃渓園」の名は庭園の滝の風情が幽邃でもの静かであることによる。1965年(昭和40年)、より、関東の高名な造園師、永井楽山翁によって改修、1972年(昭和47年)完成。楽山翁は戦前よりこの庭園を手掛け、92歳で没するまで心血をそそいだ。 ~帝釈天題経寺HPより転載~

屋根のある「回廊」から庭園を臨む

山本亭 (東京都葛飾区柴又)<区登録有形文化財>


大正末期に建てられた「山本亭」。趣ある書院造に西洋建築を取り入れた、和洋折衷の建築が特徴の建造物。合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の住居として建てられ、大正12年の関東大震災を期に、浅草の小島町から現在地に移転。大正15年から昭和5年までに増改築を重ねた。当時は洋風建築を取り入れることが富裕層の間で流行しており、その佇まいを今に残す貴重な建築として、葛飾区が登録有形文化財に指定。昭和63年に買い取り、平成3年4月から一般公開されている。270坪の典型的な書院庭園は、米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living〜ランキング調査(2016年)で、第3位に評価されており、全国900カ所以上の旧所名跡、旅館、旧別荘が対象となっているこの調査においては順位が公表された2003年以降、「山本亭」は、常に7位以内にランクインしている。~葛飾観光ポータルサイト「かつまるガイド」HPより転載~

「長屋門」

<都歴史的建造物>

大正から昭和初期に建てられたと言われ、東京都の歴史的建造物に指定。武家屋敷に見られる伝統的な長屋門に洋風の意匠を取り込んだ和洋折衷の造り。六角形のタイルが敷かれた床、ステンドグラスの窓など、洋風に装飾された和装建築に、建造当時の流行を垣間見ることができる。

「主庭」

緑豊かな書院造の庭園。

江戸川に出て「矢切の渡し」へ

矢切の渡し


江戸時代初期から続く、柴又と対岸の千葉県を結ぶ渡し船。都内に唯一残る貴重な渡し場。小説「野菊の墓」や歌謡曲にも登場、対岸の千葉県松戸市矢切まで舟が往復している。