柴又散策Ⅱ


新型コロナウイルス禍の中、健康維持のための散策です。2018年9月以来の「柴又」です。行ったことのない友人と一緒でしたので前回と同じコースをたどりました。平日に設定、訪問者がかなり少なかったため、前回に比べゆっくりと回れ、写真撮影にも集中できました😊 !!「帝釈天参道」から「帝釈天題経寺」、「山本亭」、参道に戻って創業250年の「川千家」でうな重をいただきました。 -2020.07.16-  (2018年9月の柴又散策Ⅰ

京成金町線「柴又駅」前

寅さんが出迎えてくれます

「フーテンの寅」像

(1999)

「見送るさくら」像

(2016)


「ハイカラ横丁」

昔懐かしい駄菓子がいっぱい!!

「帝釈天参道」

帝釈天題経寺(東京都葛飾区柴又)


当山は、「経栄山題経寺」(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。御本尊の片面には、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれ、 両脇には、法華経・薬王品の「この経はこれ閻浮提《仏教で全世界のことを言う》の人の病の良薬なり、 もし人病あらんに、この経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という経文が彫られてあり、 そしてもう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒の相をあらわした帝釈天御本尊が彫られてある。 これは悪魔降伏の尊形であり、即ち我々仏の教えを信仰し、従う者には、もし病難や火難、 その他一切の災難に遇えば、帝釈天が必ず守護し、この悪魔を除き退散させてくれると言うものである。

帝釈堂の右手に国宝級ともいわれる「彫刻ギャラリー」と「大客殿」、「回廊」から見られる庭園の「邃渓園(すいけいえん)」を見学。 ~帝釈天題経寺HPより転載~

「二天門」

帝釈天の配下の四天王のうち、南方守護の増長天、西方守護の広目天を安置する。明治29年、江戸期建築の最後の名匠と言われた、坂田留吉棟梁によって造りあげられた、総欅造りの豪壮な門である。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、桝組は、三手先、扇タルキの見事な出来映えは、この寺の建造物の中でも、ひときわ優れている。この二天像は、奈良大安寺にあった往古の文化財と伝えられ、奈良時代の造像。多くの木彫群によって荘厳された重厚優美な「二天門」は、門前通りの正面にそびえ立って見られる。この門をくぐれば、「瑞竜の松」が枝を拡げる境域へと誘われる。正面には、帝釈堂の偉容が目前に現れる。

木彫りが素晴らしい

二天門の木鼻(唐獅子)の彫刻

帝釈堂を臨む

「帝釈堂」

日蓮大聖人が衆生(しゅじょう)の病を無くさんと、願いをかけて刻まれた板本尊を祀る「帝釈堂」は、名人、坂田留吉棟梁が仕上げた総欅造り。特に堂の周囲を法華経説話に取題した彫刻をめぐらして、まさに当山の山号である経栄山にふさわしい工夫は、入念の彫刻作品とともに無類の文化財になっている。

「喜見城」…喜びが現れる城

帝釈尊天がおわします「帝釈堂」の正面、堂々たる扁額に光る文字は「喜見城」。遥かな高みの仏の天の忉利天にそびえる帝釈天の居城、喜見域を現世で拝礼する唯一の場が当山の「帝釈堂」に他ならない。

「瑞龍のマツ」

<東京都指定天然記念物(植物)>

「帝釈天」の名で知られる「経栄山題経寺」。その参道から「二天門」をくぐって境内に入ると正面に「帝釈堂」が建っており、その「帝釈堂」の手前、向かって左に生えているのが「瑞龍のマツ」です。 幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の三方に長く伸びています。そのうち、西の枝は石畳に沿うように長く伸び、南北の枝は、「帝釈堂」を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようです。 縁起によると、題経寺は寛永6年(1629)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、「瑞龍のマツ」とされています。 「瑞龍のマツ」は、「帝釈堂」正面と一体となって景観をなしており、また「帝釈天題経寺」の創建の由来を伝える銘木、巨木として重要です。 東京都教育委員会 ~下記案内板より転載~

「御神水」

江戸寛永の昔、松の根方に霊泉の湧くのを見て、庵を結んだのが当山の縁起。松は四方に枝を拡げて「瑞竜の松」の名にふさわしく、こんこんと湧き出る泉は、善男善女に汲めども尽きない御利益を授ける。寅さんが産湯としてこの御神水につかったという口上でも知られている。

白蛇に御親水をかけるとご利益があるとか…

「浄行菩薩」

法華経に説く地涌(ちゆ)の四菩薩の一人で、地水火風の四大の内、水大の菩薩として、この世を浄化し、人々の罪や穢れを洗い清めてくださる。


「大鐘楼」

昭和30年、名匠、林亥助棟梁によって完成された総欅の「大鐘楼」。高さ約15m、四手先の豪壮な桝組と木彫を施し、関東一の鐘楼と言われる。梵鐘は、雅楽「黄鐘調(おうしきちょう)」と言われ、昭和の銘鐘の名が高い。環境庁選定「日本の音風景100選:柴又帝釈天界隈と矢切の渡し」の主役。寅さんの映画でも必ずこの「大鐘楼」の効果音が挿入されている。

「手水鉢」

「祖師堂」(本堂)

古くから「帝釈堂」として、江戸の信心を集めていた建造物を明治になって、現在の「帝釈堂」を造り上げて移し、大修理を加えて現在の「祖師堂」になる。その後、帝釈天御本尊出現200年を記念する昭和54年、望月日翔山主の発願によって大改修が施された。

左側「観音菩薩坐像」 

右側「大日如来坐像」

「境内の様子」

おみくじ所

「南大門」

大客間と回廊・邃渓園


「大客殿」と「回廊 」: 十六世日済上人の時に、芝の二本榎の名匠、鈴木源治郎氏の手によって1929年(昭和4年)に落成。百五十坪。用材は全て桧で、数百の材木の中から一本の材料と云うほど、材料を厳選して造営したものだそうである。この様な規模の木造建築は現在では構築不可能といえる。北側はガラス障子の広縁を巡らし、中央には物見台が設けられ名庭「邃溪園」と対坐する。「大客殿」廊下からつながっている「回廊」は、庭園「邃渓園」の外周をぐるっと廻っている。「頂経の間」には“日本一の大きさ”を誇る「大南天の床柱」がある。東京都の「選定歴史的建造物」。

「邃渓園(すいけいえん)」 :「 邃渓園」の名は庭園の滝の風情が幽邃でもの静かであることによる。1965年(昭和40年)、より、関東の高名な造園師、永井楽山翁によって改修、1972年(昭和47年)完成。楽山翁は戦前よりこの庭園を手掛け、92歳で没するまで心血をそそいだ。 ~帝釈天題経寺HPより転載~

「大客殿」

「彫刻ギャラリー」にある

法華経説話の彫刻原型

「頂経の間」

「大南天の床柱」

日本一(樹齢1500年)

「回廊」

池と「大客殿」

ゆったりとした時間が流れてます⌛

「御神水」

帝釈堂彫刻ギャラリー


「喜見域」、「帝釈堂」の外壁をめぐる10枚の胴羽目彫刻は、法華経の説話に取材した入魂、細微な作品で、欅材の木彫は近世法華経美術の頂点をきわめている。当山16世日済上人の発願によって当代の名匠、加藤寅之助師が大正11年(1922)に最初の1枚を彫り上げ、翌年にあった大震災にもかかわらず名人たちの入念な精進の末に、彫りあげて昭和9年に完成された。この大彫刻群は、不屈の信仰と芸術の結晶である。(縦巾1.27m、横巾2.27mの作品の下絵にあたる彫刻原型は「大客殿」に飾られている)

10枚の胴羽目彫刻

「法華経説話彫刻」

「塔供養の図」金子光清作

今、日月燈明佛の眉間から光が放たれると、東方一萬八千の佛国土が照らし出されます。それらの佛国土では、さかんに塔供養が行われているのが見えます。このような光景が見られることは、「法華経」が演説される前ぶれです。

「慈雨等潤の図」石川信光作

佛の慈悲深い教えは、あまねく地上を潤す慈雨と同じです。今、雷神と風神が現れて、雨をふらし、大地には緑があふれ、さまざまな花々がきほこります。天人たちも地上の楽園に舞いおりて来ました。

「多宝塔出現の図」石川銀次朗作

「法華経」を信仰するところでは多宝塔(多宝如来の塔)が、地面から湧き出してきて人々の信仰をほめたたえます。人々は歓喜にふるえ、一心にその塔を礼拝します。人々の顔には、法悦のほほえみが浮かんでいます。

 

「龍女成佛の図」山本一芳作

「法華経」では、女性が成佛できる事を説示します。今、竜王の娘で、八才になる智慧にすぐれ弁舌さわやかなこの娘は、多くの教えを理解し不動の境地に達しました。波の上にあって龍女が宝珠を佛に捧げています。

「常不軽菩薩受難の図・法華経功徳の図」小林直光作

常不軽菩薩は「常に人を軽べつしない」という修行をしてきましたが、却って迫害を受けました。又「法華経」は、寒さに火を得たように、子のところに母親が来たように、渡りに舟を得たように、闇に灯りを得たように救いの道を示すのです。

 

「三車火宅の図」木嶋江運作

三車とは、羊、鹿、牛が引く三種の車のことで、火宅とは燃える家の事です。われわれ凡夫は、火宅の中で遊びたわれる子供と同じで何のおそれも感じません。父親は、子供たちを救出するために三つの車を用意したのです。

「法師修行の図」横谷光一作

インドでは、法師たちは森の中や洞窟の中で独り静かに修行をしています。しかし、寅や狼の危険があり、心淋しく、修行は厳しいものです。その修行を励ますために、佛が立ち現れたり、象に乗った普賢ぼさつが姿を現すのです。

「千載給仕の図」加府藤正一作

阿私仙(アシセン)という仙人が、「法華経」という尊い教えを持っていました。この仙人について私は千年の間、給仕のまことを捧げ、水を汲み、薪を拾い、果の実を採り、ある時には仙人の腰掛になりました。法華経を知りたいための修行でした。

「病即消滅の図」今関光次作

「法華経」は、全世界の人びとの病の良薬です。もしある人が病にかかり、この「法華経」を聞く幸運に恵まれたら、たちどころに病はなおり、不老不死の境地を得ることが出来るのです。

「法師守護の図」加藤寅之助作

「法華経」を受持(ジュジ)・読(ドク)・誦(ジュ)・解説(ゲセツ)・書写(ショシャ)することを、法師の五種の修行と言います。まず経をたもつことを誓い、読み、あるいは誦して、解き明かし、経文を書き写して法華経をひろめます。修行する法師を天人も阿修羅も協力して守護するのです。


「柴又帝釈天絵馬」

<葛飾区登録有形民俗文化財>

鴈・葦(秋)

白鷺・樫(秋)

鸊鷉(かいつぶり)、梅(冬)

鵜と翡翠(かわせみ)、猫柳(夏)


山本亭(東京都葛飾区柴又)<区登録有形文化財>


大正末期に建てられた「山本亭」は、趣ある書院造に西洋建築を取り入れた、和洋折衷の建築が特徴の建造物。合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の住居として建てられ、大正12年(1923)の関東大震災を期に、浅草の小島町から現在地に移転。大正15年(1926)から昭和5年(1930)までに増改築を重ねた。当時は洋風建築を取り入れることが富裕層の間で流行しており、その佇まいを今に残す貴重な建築として、葛飾区が登録有形文化財に指定。昭和63年(1988)に買い取り、平成3年(1991)4月から一般公開されている。明り取りの窓、違い棚など、書院造の特徴が随所に見られる建物は、木造二階建て。1階は120坪の広さがあり、2階が15坪、「地下防空壕」や「土蔵」、「長屋門」で構成されている。~山本亭HPより転載~

「長屋門」

武家屋敷に見られる伝統的な長屋門に、洋風の意匠を取り込んだ、和洋折衷の造り。六角形のタイルが敷かれた床、ステンドグラスの窓など、洋風に装飾された和装建築に、建造当時の流行を垣間見ることができる。昭和5年から8年に住居兼用であった古い「長屋門」を取り壊し新築された。

「旧玄関」

「居宅」

庭園に向かう見晴らしのよい、心安らぐ空間。ガラス戸やガラス欄間を多用することで開放感のある構造になっている。「鳳凰の間」を除き、すべての居宅は和風意匠で統一。中央の廊下を境とする二世帯住居の様式。

「主庭」

緑豊かな書院造の庭園は、「山本亭」の最大の見所。縁先に池を配し、背景には広がる常緑樹。耳をすませば、築山から落ちる滝の音が心癒してくれる。なお、270坪の典型的な書院庭園は、米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living〜ランキング調査(2016年)で、第3位に評価されている。全国900カ所以上の旧所名跡、旅館、旧別荘が対象となっているこの調査において、順位が公表された2003年以降、「山本亭」は、常に7位以内にランクインしている。

「鳳凰の間」

寄木を用いたモザイク模様の床、白漆喰仕上げの天井、ステンドグラスの窓が用いられた、「山本亭」唯一の洋間。客人をもてなす応接室として利用されていたことからも、当時の西欧文化に対する憧憬の念が感じ取れる。

襖絵「花菖蒲」

日本画家 福田千惠作(葛飾区在住)

「土蔵」

正確な築造年は明らかになっていないが、「山本亭」内で最も古くに建てられた建造物とされている。階建ての構造になっており、土を厚く塗って柱が外側に見えないようにした大壁造りの外壁が特徴。

外から見た「土蔵」

「茶室」

「地下防空壕」

「旧玄関」向って右側の裏庭

「山本亭」の外観