江東区散策(越中島・門前仲町・清澄白河)


スタートは中央区明石町の「築地外国人居留地跡」。「佃島」、隅田川沿いに「石川島公園」を経て、江東区「越中島」へ。さらに清澄通りを歩き「門前仲町」を経由してゴールの「清澄白河」へ。GWのさなか、人混みを避けてまち歩き!!-2022.05.02-

中の島公園(江東区越中島)


中央区佃島と江東区越中島の間を流れる隅田川の派川・晴海運河の「相生橋」下の中洲が、隅田川水系唯一の中洲。江東区立「中の島公園」として整備。塩の満ち引きの影響を受ける感潮池、渡り桟橋などが整備され、夜景の名所にもなっている。

「相生橋」とたもとにある「中之島公園」

「感潮池」

隅田川の水を入れて

潮の満干によって水位が変わる池

感潮池断面見取図

豊洲方面の高層ビルやタワーマンション

手前に屋形船

東京の水辺らしい風景

明治天皇聖蹟の碑(江東区越中島)


「相生橋」の北側たもとにある「明治天皇聖蹟記念碑」。後ろに見えている帆船は、東京海洋大学の敷地内にある重要文化財の「明治丸」。「明治天皇聖蹟記念碑」は、明治天皇が1870年9月、薩摩・長州・土佐・肥前の藩兵の訓練を見るため、越中島練兵場を行幸されたことを記念した碑。

明治丸(東京海洋大学構内)<重要文化財>


明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌8年横浜に回航された。一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていた。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍した。およそ20年間、燈台巡廻船として活躍した「明治丸」は、明治29年に商船学校(本学の前身)に譲渡された。昭和53年(1978年)わが国に現存する唯一の鉄船であり鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として国の重要文化財に指定された。~東京海洋大学HPより抜粋転載~

大学見学は、「事前申し込み」が必要な場合と「事前申し込み」不要の場合があるそうです。今回は外から撮影。

東京海洋大学 越中島キャンパス(江東区越中島)


江戸時代初期に榊原越中守が島状の土地に屋敷を持っていたところから「越中島」と名付けられ、その後忍藩松平下総守の領地となった。黒船来航後、海防のためその屋敷の東隣に設けられた「越中島調練場」、引き続く明治期の「陸軍練兵場」が、明治32年11月「商船学校」の敷地となり、永代橋畔の霊岸島校舎から明治35年1月10日に移転完了。その後、静岡・清水に「商船大学」が開学したが再び越中島に移転し、前身校である「東京商船大学」へと発展した。~東京海洋大学HPより抜粋転載~

東京大空襲のときに構内の樹木を守った塀

清澄通りに面したコンクリート製の塀は、関東大震災後に造られました。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲のときに、この塀によって構内の樹木の根元の部分が守られたので、構内の樹木は現在のような大木になった。平成24(2012)年に塀をアルミ鋳物製の柵に改装された際、構内の樹木を守った塀として、一部残すことにしたとのこと。~下記案内板より抜粋転載~

「第一観測台」「第二観測台」

<登録有形文化財>

明治36(1903)年6月竣工。「第一観測台」「第二観測台」は、現存する日本最古の天文台と推定されている。商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。「第一観測台」「第二観測台」ともに平成9(1997)年12月12日、国の有形文化財に登録、令和3(2021)年3月、日本天文学会の日本天文文化遺産に認定された。

「第一観測台」

内部には当時東洋一と言われた最新鋭赤道儀望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分同銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていた。

「第二観測台」

内部は子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して精確な経度の測定及びその時の天体の高度から緯度の測定等ができた。

 

 


法乗院(深川ゑんま堂)(江東区深川)


寛永6年(1629年)深川富吉町(東京・江東区)に創建され、同18年に現在地に移りました。開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺。御本尊である大日如来さまを慕って今も多くの人々が集います。また、江戸時代から「深川ゑんま堂」としても地域の人々に親しまれ、広く信仰を集めている。

「ゑんま堂」

日本最大の閻魔大王座像。平成元年、現在のゑんま座像を建立。19のご祈願に対しお賽銭を投入すると、仏様より様々な説法を聞くことが出来るシステムを日本で初めて採用したゑんま像。おゑんまさまの除けと封じの御利益は特別なものとして有名で、江戸三ゑんまの一つとして庶民の信頼を集めている。

全高3.5m、全幅4.5m、重量1.5t、

寄木造り

迫力満点です!!

心行寺(江東区深川)


双修山養源院と号し、元和2年(1616)、京橋八丁堀寺町に創立。開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿。寛永10年(1633)、現在地深川寺町に移転した。「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時は間口四十二間、奥行四十二間、千七百六拾四坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。往時は影窓院・正寿院の2つの末寺があったが、その後合併された。~心行寺HPより抜粋転載~

「本堂」

旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後、昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度烏有に皈した。現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成した。

「六角堂」

深川七福神の福禄寿を安置

「福禄寿」

福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。福禄寿は星宿の神、南十字星の化身といわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056~)に実在した道士であると言われています。福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え、円満な人格を人々に授ける福神であります。また、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の3つの福徳を授ける福神ともいわれてきました。

採茶庵跡 <江東区登録史跡>(江東区深川)


採茶庵跡 ~奥の細道はここから~  

深川1-8付近

採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、『常盤屋句合』『角田川紀行』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。

採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1-8)を挟んだ一角でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより140mほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。 江東区教育委員会 ~案内板より転載~

「芭蕉俳句の散歩道」

海辺橋から仙台堀川沿いに

芭蕉俳句の散歩道が続く

奥の細道の代表的な18句が

木製で句碑として行程順に並んでいる

イラストは風景漫画家の沖山潤氏作

清澄白河の「旧東京市営店舗向住宅」(江東区清澄)


門前仲町から清澄白河へ向かう途中、清澄通りに沿って約250mにわたって立ち並ぶ鉄筋コンクリート造の長屋状に並ぶのを見かける。これは「旧東京市営店舗向住宅」と呼ばれ、関東大震災後の復興事業の一環として、東京市が昭和3年(1928)に整備された。建設から80年以上が経過した今もなお実際に店舗付住宅として使用されており、いまだに昭和レトロな外観を残している建物もあるが、現在は人気のあるカフェやギャラリーなども入居している。

下町情緒に新しいお店が溶け込む

「旧東京市営店舗向住宅」

清澄白河の独特の風景

"カフェのまち" 清澄白河


江戸時代から木材産業で栄えた深川一帯には、木材を保管するための天井高の倉庫が多く建てられた。この天井の高さがコーヒーの焙煎機を置くのに適していて、跡地を利用したカフェがオープン。清澄白河にコーヒーブームが興ったようです。

おしゃれカフェ「ブルーボトルコーヒー」

目印は青いボトルのロゴ

「fukadaso」

「fukadaso」は、『株式会社ゆくい堂』の手がける『受け継がれる箱』プロジェクトとして誕生。解体寸前だった風呂無しアパート「深田荘」のレトロなそのたたずまいを継承し、余計なことはせず手入れすることで再生させるプロジェクト。「深田荘」は「fukadaso」へと2012年9月15日より生まれ変わり、現在は複数のテナントが入っている。

102の「リカシツ」には理科の実験で使ったちょっと懐かしいビーカーや試験管が。101の「fukadaso CAFE」でお茶 ♬

(江東区白河)


開山上人は、浄土宗総本山知恩院第三二世雄誉霊巌上人。江戸に教えを広めようと、今の茅場町あたりに草庵を建てた。上人の徳を慕う人が増え、草庵が狭くなったので、向井将監忠勝の下屋敷の芦沼を拝領、霊巌島を造成して寛永元年(1624)に道本山東海院霊巌寺を建立した。陸奥国白河藩松平定信の墓所があり、白河の地名が名づけられている。

「山門」

「本堂」

「江戸六地蔵」

<東京都指定有形文化財 (彫刻)>

銅像地蔵菩薩座上 (江戸六地蔵の一)

江戸六地蔵の由来は、その一つ大宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵之建立略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706) 造立の願を発し、人々の浄財を集め 江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は 廃仏毀釈で取り壊され、五軀が残っています。六地蔵のうち、霊巌寺の地蔵は第五番目で、享保二年(1717) に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は、273㎝あり、かっては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ違例の少ないものであることから文化財に指定されました。平成23年3月 建設 東京都教育委員会 ~下記案内板より転載~

「松平家墓所」

<国指定史跡>

史跡 松平定信墓 

松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白川藩主となり白河楽翁を号していた。天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本、御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。また、朱子学者でもあり「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。 東京都教育委員会 ~下記案内板より転載~

「松平定信墓」

「松平定信夫人の墓」


「関東大震災」の慰霊の地蔵群

雲光院(江東区三好)


徳川家康公の側室阿茶局の菩提寺として、慶長十六年(1611)阿茶局自らの発願により、増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人(初代住職)として仰ぎ開創された。阿茶局の法號「雲光院」がそのまま寺の名称となる。開創地は中央区馬喰町付近であったが、明暦三年(1657)の大火に被災し、神田岩井町に替地となり、天和二年(1682)現在の深川の地に再び替地となった。~雲行院HPより抜粋転載~

「山門」右側にある石碑

「阿茶局の墓」の側面にある碑文

阿茶局は今川氏の家臣神尾忠重の妻であったが、夫の死後徳川家康に仕え、阿茶局と称し慶長19年(1614)、大阪役のとき使者として大阪城に入り、淀君に面接して和議成立に力を尽し、天和6年(1683)2代将軍秀忠の女が京都に入内するとき、母親代りとして随行するなど才女としての誉れ高く、老後は雲光院と号し、寛永14年(1637)1月2日83歳にて死去し、雲光院に葬られた。 江東区第六号

「本堂」

「六字名号供養塔」

<江東区指定有形文化財>

石造宝篋印塔(阿茶局墓塔)寛永14年在銘

<江東区指定有形文化財>

総高363.1センチメートル、石質は安山岩。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子(しゅじ)が刻まれている。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉寛永十四丑丁年正月廿日」の刻銘。~江東区HPより抜粋転載~

「六地蔵」

 中央区(明石町・佃)散策は、中央区(明石町・佃島)へ。