皇居東御苑 (東京都千代田区)


「皇居東御苑」は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備されたもので、昭和43年(1968)から公開されている。東京ドームの約4.5倍(約21万㎡)の広さがあり、「二の丸庭園」は、小堀遠州作の回遊式庭園を復元したものです。また、「二の丸庭園」以外は洋式庭園として整備されています。園内には「天守台」や「富士見櫓」、「多聞」をはじめ旧江戸城を偲ばせる建物、遺構が残されている。平成5年(1993)には「三の丸尚蔵館」が開館し、皇室から寄贈された美術品などが公開されている。出入りは大手門・平川門・北桔橋門で、入園の際、各窓口で入園票を受け取り、退園の際、返却する。 ~皇居東御苑-千代田区観光協会HPより転載~ -2019.05.16/06.12-

大手門


「大手門」は、江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城した。大小二つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっている。大きいほうの門は、昭和20年(1945年)4月の空襲で焼失し、昭和42年(1967年)に復元された。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれている。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建築に製作されたものと考えられる。~下記案内板より抜粋転載~

旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)


1945年(昭和20年)4月、戦災で焼失した旧大手門の渡櫓(わたりやぐら)の屋根に飾られていた鯱です。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)焼失した後、再建した際に製作されたものと推定されます。現在の「大手門渡櫓」は、1968年(昭和43年)に再建されたものです。 ~説明版より転載~

現在の「大手門渡櫓」の鯱

三の丸尚蔵館


平成元年(1989年)6月、代々皇室に受け継がれてきた美術工芸品類が皇室から国に寄贈されたのを機に建設された施設で、収蔵品は、順次、展示公開される。

同心番所


「番所」とは、警備の詰め所のことで「百人番所」と「大番所」とこの「同人番所」の3つが残っている。城の奥の番所ほど位の上の役人がつめていた。ここは同心が詰め、主として登城する大名の供の監視に当たっていた。

百人番所


江戸城本丸への道を厳重に守る中之門に向き合って設けられた警備詰所。甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組の鉄砲百人組が昼夜交代で詰めていた。各組は20人の与力と100人の同心で構成されていた。~下記案内板より抜粋転載~

大番所


「大番所」は、大手中之門の内側に設けられていた警備詰め所。ここは位の高い武士が勤務していた。この場所は明治期に改築され、作業所として使われていましたが、昭和43年(1968)に江戸時代の姿に復元された。~下記案内板より抜粋転載~

二の丸雑木林


武蔵野の代表的な風景である雑木林は、下草や落葉は毎年肥料として集められ、木は20年ごとに燃料用に伐採されるなど、人間生活と深い関わりによりけいせいされていました。この雑木林は、コナラ、クヌギなどの落葉樹の林が保たれ、チゴユリなどの春植物(樹木の葉が開く前の林内が明るいうちに葉を広げ、花を咲かせる植物)をはじめ、多様な生物が生息・生育できる林となっている。~下記案内板より抜粋転載~

二の丸庭園


江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。現在の回遊式の庭園は、昭和39年(1964)に、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。~下記案内板より転載~

「菖蒲田」

大神楽

江戸自慢

大盃

大江戸

煙夕の空

鳳台

加茂川

浪乗舟

連城の璧

五月晴


「二の丸池」

諏訪の茶屋


諏訪の茶屋は、元々明治45年(1912)に皇居内の吹上地区に建てられたもの。その場所に江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前がついている。昭和43年(1968)に現在の場所に移築された。~下記案内板より抜粋転載~

汐見坂


徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名がついたといわれています。この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上には、汐見坂門が設けられていました。~下記案内板より転載~

天守台


最初の「天守閣」は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成したが、慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、「天守」が建てられた。最も規模が大きかった寛永度天守は、外観5層、内部6階で、地上からの高さが約58mあったといわれている。この「天守台」は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものだが、幕府内で「天守」は不要との結論が下され、この「天守台」には「天守」が建てられないままになった。江戸時代の江戸城は、「天守」があった50年間の後、「天守」がない状態が210年間続いたことになる。~下記案内板より転載~

江戸城本丸御殿


この天守台から見える大芝生とその周辺には、「江戸城本丸御殿」の建物が立ち並んでいた。本丸御殿は、「表」、「中奥」、「大奥」という三つの空間に分かれていた。~下記案内板より抜粋転載~

竹林


この「竹林」は、天皇陛下のお考えから平成8年(1996)に整備された。昭和天皇がそのお印であった「若竹」にちなみ喜寿の記念等に宮内庁職員から贈られ、吹上御所にお植えになっていたものをこちらに移したもの。日本と中国の竹・篠類が13種類植えられている。~下記案内板より転載~

キンメイモウソウ(金明孟宗竹)

キッコウダケ(亀甲竹)


キンメイチク(金明竹)

スホウチク(蘇方竹)


ホウショウチク(鳳翔竹)

コンシマダケ(紺縞竹)


石室


この場所は、「江戸城本丸御殿」の「大奥」の脇に当たります。「石室」の用途は諸説ありますが、家事などの非常の際に、「大奥」用の調度などの避難場所と考えられています。~下記案内板より転載~

富士見多聞


「多聞(たもん)」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、「多聞長屋」とも呼ばれた。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことができた。本丸の周囲は、櫓(やぐら)と多聞で囲まれて万一に備えられていた。

バラ園


テリハノイバラ(照葉野薔薇/照葉野茨)

ナニワイバラ(難波薔薇)

サンショウバラ(山椒薔薇)

サクラバラ(桜薔薇)

コウシンバラ(庚申薔薇)

カノコ(鹿の子)

フローレンス・ナイチンゲール

シロバナハマナス(白花浜梨/浜茄子)

ハマナス(浜梨/浜茄子)

ウツギ(空木)

松の大廊下跡


赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央への刀傷事件(元禄14年(1701)があった場所です。廊下に沿った襖戸に松と千鳥の絵が描かれていたのが名前の由来です。江戸城中で二番目に長い廊下で本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の立派なものでした。~下記案内板等より抜粋転載~

富士見櫓


「櫓」は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割を持った建物。かつて江戸城には多くの櫓があったが、現存する「櫓」は、「富士見櫓」、「伏見櫓」、「巽櫓」の3つとなった。「富士見櫓」は、明暦の大火(1657年)で焼失したが、その後まもなく再建され、天守の代用として使われていた。将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めたといわれている。~下記案内板より転載~

大芝生付近で見た花々


ホタルブクロ

ハアザミ

都道府県の木


鹿児島県の木:かいこうず

梅林坂


この地に最初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神神社をまつり、数百株の梅を植えたことから「梅林坂」の名が付いたといわれています。現在は70本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。~下記案内板より転載~

平川門


大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていた。大手門と同様、厳重な防御の構造となっている。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれている。小さな脇門は、平川濠の中に伸びた「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっている。~下記案内板より抜粋転載~