蔵の街 栃木Ⅰ


蔵の街 栃木を散策しました。街なかを流れる巴波川の「蔵の街遊歩道」や「蔵の街大通り」に、見世蔵や白壁の土蔵群などが残っていてまち歩きが楽しい!! 偶然にも訪れた日より春の風物詩「うずまの鯉のぼり」が始まっていて、歴史を感じる黒塀や土蔵と色鮮やかな鯉のぼりとの競演が写真映え!蔵の街で立ち寄った「近龍寺」「神明宮」は、蔵の街 栃木Ⅱ へ。 -2023.03.14-

巴波川沿いに作られた蔵の街散策の出発地点

「蔵の街遊歩道」

巴波川 見下ろしスイスイ 

栃木市で「うずまの鯉のぼり」

赤、青、緑など色とりどりの鯉(こい)のぼりが栃木県栃木市の巴波(うずま)川の上空を泳ぐ春の風物詩「うずまの鯉のぼり」が14日、始まり、訪れた観光客や市民を楽しませていた。5月14日まで。鯉のぼりは常盤橋〜巴波川橋下流間の約600mに1151匹。「いい鯉」の語呂合わせという。大きさは90cmほど。遊覧船を運航しているNPO法人「蔵の街遊覧船」などが端午の節句をまたぐ時季に開催している。~東京新聞 2023年3月15日 07時52分 首都圏ニュース 栃木 より転載~

巴波川(うずまがわ)

幕末期から昭和初期に栄えた問屋町、北関東の商都と呼ばれた栃木市を支えた巴波川。巴波川舟運の発達により、東京、埼玉、千葉、茨城などへの物資輸送だけでなく、関東と南東北の流通を結ぶ結節点として、問屋業、製造業発展を支えた。栃木市の発展に大きな役割をはたしてきた巴波川の舟運は、元和3年(1617)、徳川家康の霊柩を久能山から日光山へ改葬した際、御用荷物などを栃木河岸に陸上げしたことにはじまる。その後、物資の集散地として、部賀舟(べがぶね)などが往来し、江戸との交易を盛んにした。~栃木市観光協会HPより転載~

蔵の街遊覧船


蔵の街遊覧船で、栃木市の街中を流れる巴波川(うずまがわ)を船に乗って遊覧。乗船時間はおよそ30分間。川の流れに乗って船頭が、栃木市や巴波川の歴史や地域にまつわるお話しを『栃木河岸船頭唄』(とちぎかしせんどううた)と共にご案内。幸来橋~巴波橋付近は、江戸時代を思わせる蔵造りの建物が並び、TVドラマやCMのロケ地として度々利用されている。TBS日曜劇場「JIN-仁-」など。

塚田歴史伝説館(栃木県栃木市倭町)<登録有形文化財(建物)>


塚田家は、江戸時代後期の弘化年間(1844~1848)から木材回漕問屋を営んできた豪商でした。当時は木材を筏に組んで巴波川(うずまがわ)から利根川を経由し、行きは一昼夜、帰りは三日三晩をかけて江戸深川の木場まで運んでいたといわれている。巴波川沿いにある120mに及び巡らされた黒塀と白壁土蔵は栃木市を代表する景観となっている。

塚田歴史伝説館展示館:明治/1903 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積50㎡ 登録有形文化財(建造物)、景観重要建造物

上記写真出典:栃木市観光協会HPより転載

黒塀が続く

三味線ばあさんロボット展示

三味線を弾きながら、塚田歴史伝説館の説明をしてくれる語り部ロボットおばあちゃん(日本初)と座敷に腰掛けたおじさん人形。猫も動きます。まるで本物のようです😊

展示館

1~3号館からなり、

集積した家宝を300点ほど展示

蔵芝居

ハイテク人体型ロボット蔵芝居

「うずま川悲話」上映

転載:塚田歴史伝説館パンフレット

人形山車

お囃子付きからくり人形山車

手力男命(たぢからをのみこと)

ひょっとこロボット登場

水琴窟のある庭園

数寄屋造りの別荘


「幸来橋(こうらいばし)」

欄干に彫られた鯉のモチーフ

幸来橋ポケットパーク


巴波川水運記念碑

巴波の鯰(なまず)

これは巴波川にまつわる「鯰の恩返し」の民話に基づき、制作したものである。昔、この地に日照りがつづき、川の水も干上がってしまったおり、一匹の鯰が苦しんで死にそうになっているのを、あるお百姓が見つけ、助けてやった。ところが、のちに大雨がつづき、巴波川が洪水で氾濫したとき、その人の幼い子が濁流に吞み込まれてしまったのを、突然現れた鯰の大群が担ぎ上げるように運び、救ってくれた。その子は大変親孝行であったという。~下記案内板より転載~

民話「鯰の恩返し」を基にしたモニュメント

子供を乗せた鯰

横山郷土館(栃木県栃木市万町)<登録有形文化財(建造物)>


横山家は、かつては栃木でも有数の麻苧(あさお)問屋として知られていました。店舗は北半分が麻苧問屋、南半分が明治32年に設立された栃木共立銀行としてつくられており、出入口も別々に設けられています。両側の石蔵は北側の麻蔵が明治42年、南側の文庫蔵が明治43年の上棟で外壁はいずれも鹿沼産の深岩石が積まれており、小屋組みは木造のキングポスト(洋風小屋組)が用いられ、窓や出入口には赤煉瓦積みの蛇腹を廻しています。庭園内には大正7年建築の離れ(洋館)があります。外観はハーフティンバー形式(壁面に柱や梁が露出する構造)を用い、内部は和風を基調としますが天井を洋風にするなど和様折衷になっています。栃木市教育委員会 ~下記案内板より転載~

両袖切妻造りという貴重な建築様式。店舗を抱えられるように築かれている石蔵は、深岩石で作られている。

麻問屋跡

麻蔵入口

帳場跡

向かって右の蔵は、麻を保管。当時は15㎏の麻束が2万束、合計300tほど入った。石蔵に使われている石は、栃木県鹿沼市の特産品である深岩石が使用されている。深岩石は栃木県宇都宮市の特産品である大谷石によく似ているが、大谷石より水に強いことが特徴であり、横山家の前を流れている巴波川が当時頻繁に氾濫していたことから、石蔵の材料として水に強い深岩石が使われていた。

現在は横山家の所蔵品を展示している。

銀行跡

横山家は麻問屋で成した財を元手に、明治41年(1908)に栃木共立銀行を設立し、商都栃木市の地域金融を担っていた。設立時の資本金は10万円(現在の価値で約3億円)で昭和7年(1932)に廃業となった。

麻の葉模様の磨りガラス

文庫蔵

当時、銀行の書物などが保管されていた。

現在は横山家で使用していた道具を展示。

庭園

回遊式庭園では色とりどりの花々や目に鮮やかな緑等、四季折々の景色を楽しむことができる。

庭園には7本のアカマツが植えられ、下の中央の一本は県内でも有数の枝ぶりとのこと。

大広間

横山家の女性が使用していた部屋

洋館

庭園にある洋館風の離れは、内装は座敷の和洋折衷のゲストハウス。ヨーロッパの建築技法であるハーフティンバー様式で大正7年(1918)に建築された。第二次世界大戦中には、歌舞伎役者の二代目市川猿翁が疎開していたこともあった。


常盤橋付近

栃木市役所別館(栃木県栃木市入舟町)<登録有形文化財(建造物)>


大正/1921 木造2階建,瓦葺,建築面積575㎡

栃木は、明治17(1884)年までは、県庁所在地であった。そして栃木市役所別館は、大正10(1921)年に栃木町役場庁舎として、移転した栃木県庁の跡地に建設された。設計は、町役場の技師として活躍した堀井寅吉。木造2階建て、時計塔がついた洋風建築である。1階は下見板貼りで、正面玄関には車寄せが設けられている。角柱が支え、上部には半アーチの装飾がついている。2階は漆喰壁にハーフティンバーとなっており、木の部分は水色に塗装され、全体的にやさしい印象を受ける。壁には、縦長の上げ下げ式の窓が2つ1組で並んでいる。室内は、1階には事務室・食堂など、2階には議場・貴賓室などが設けられていた。栃木市の近代史を語る上で、欠かすことのできない建造物である。現在は、商工観光課や文化課などが入り、栃木市役所の別館として活用されている。

栃木病院(栃木県栃木市万町)<登録有形文化財(建物)>


栃木病院は、大正2年に当時の院長の粟田口留三が横浜方面の建築家、または栃木高校講堂の設計者に依頼して完成したものと伝えられている。木造2階建だが、屋根(元はスレート葺)を一段高くして屋根裏への採光用の窓を開き、少し突き出した両翼は、左を切妻、右を入母屋として左右対象を微妙にさけている。外壁は木造の骨組を装飾的に露出させたハーフティンバー形式(木骨形式)で、中央部1・2階には開放的なベランダを設けている。変化に富んだ軽快な外観がこの建物の最大の特徴で、栃木を代表する本格的な洋風建築と言うことができる。栃木市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

日光例幣使街道


京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。

その勅使が通る道を例幣使街道(れいへいしかいどう)と呼んだ。 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。 この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。~栃木市観光協会HPより転載~

岡田記念館(栃木市嘉右衛門町)


岡田家は、500年以上の歴史を持つ旧家で、4,000平方メートルにも及ぶ広大な敷地内には、土蔵や見世蔵、木造店舗が並び、江戸時代に畠山家の陣屋が設けられてたことから、代官屋敷とも呼ばれている。館内の蔵には、栃木県指定文化財の富岡鉄斎筆の韓人堪忍図をはじめ、文人の松音東洋城や陶芸家の板屋波山、竹工芸家の飯塚琅玗斎の作品等、岡田家伝来の宝物が展示されている。少し離れたところには国の登録文化財に指定された翁島別邸がある。岡田家は江戸時代に未開地を開墾し、地域発展に貢献したと言われており、以後代々の当主は嘉右衛門を襲名し、「嘉右衛門町」という地名の起こりともなった。~栃木市観光資源データベース蔵ナビ!HPより抜粋転載~ *定休日は月曜日から木曜日。訪れた火曜日は定休日😢。

翁島別邸

<登録有形文化財(建物)>

岡田記念館より少し離れたところにある別邸で、岡田家の当主の隠居所であったことから、いつしか翁島の名でよばれるようになったと言われている。巴波川沿いの荷揚場跡の広大な敷地に国登録有形文化財の住居と土蔵がある。2階の座敷からは富士山、男体山、筑波山が望められる構造になっていることから、「三山閣」と呼ばれている。傘天井の浴室、床柱に吉野杉の絞り磨丸太、床板には紅葉の玉杢、違い棚には紫檀が使われているなど、隅々に最高の技術が駆使され、特に10mの欅一枚廊下は素晴らしく、当時の岡田家の隆盛を感じさせる。~栃木市観光資源データベース蔵ナビ!HPより抜粋転載~

油伝味噌(栃木市嘉右衛門町)<登録有形文化財(建物)>


創業天明年間の味噌屋。建物は明治時代の土蔵他5棟が国の登録有形文化財の指定を受けており、その店舗の一角で味噌田楽店を併設している。*訪れた火曜日は定休日😢。

「油伝味噌」より「蔵の大通り」へ。

蔵の街大通り


江戸期創業の三桝屋本店や毛塚紙店など、趣のある見世蔵や大正から昭和にかけてのレトロな建物が軒を連ねる、蔵の街・栃木市を象徴するストリート。蔵の街大通り倭町一丁目商家群は、平成10年度マロニエ建築賞を受賞している。


万町交番

平成4(1992)年11月30日に、栃木市の歴史、地域の特色に配慮して改築されたのが、今の蔵造りの建物。

万町交番の特徴は、入り口に「暖簾(のれん)」が掛かっていること。「暖簾」を掛けるようになったのは、交番入り口が西向きに位置していることに起因。つまり、強い西日を避けるために暖簾が掛けられたというわけです。夏季は白色の、その他の季節には藍に染め抜かれた暖簾が風にあたって揺らめいています。~ぼうはんにっぽんHPより抜粋転載~

旧足利銀行栃木支店(蔵の街ダイニング蒼)

昭和初期に足利銀行栃木支店として建設された古典様式による本格的な銀行建築の建物で、昭和48年から平成16年までは栃木市教育委員会の庁舎として使用されてきました。正面中央に出入口を設け、その両脇にトスカナ風の古典的角柱を立てており、内部には建設当初の木造洋風トラスの小屋組みが確認できます。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でロケ地として使用され、現在は「蔵の街ダイニング蒼」として利用されています。~栃木市観光資源データベース蔵ナビ!HPより抜粋転載~

下野新聞社栃木支局

肥料商の毛塚家が建てた見世蔵と住居、土蔵です。見世蔵は江戸末期建築の木造2階建の切妻・平入りで、1階の前面に下屋庇を設けた典型的な江戸型となっています。外壁の正面のみ黒漆喰とし、2階の正面には左右にやや縦長の角窓を開くなど、栃木の見世蔵の中でも比較的古い形式が見られます。平成11年に下野新聞創刊115年を記念して下野新聞栃木支局となり、現在も活用されている。~栃木市観光資源データベース蔵ナビ!HPより抜粋転載~

「五十畑荒物店」

元糸綿商の佐山家が明治中期に建造した見世蔵。現在は、大正12年創業の「五十畑荒物店店舗」(栃木市倭町:国登録)

「三桝屋(みますや)本店」

江戸時代から続く老舗の人形店

毛塚紙店

通りに面してひときわ保存状態の良い豪壮な見世蔵を構えており、毛塚紙店を中心として連なる見世蔵は栃木市を代表する景観の一つ。見世蔵・住居と、その奥に3棟の土蔵が連なっている。毛塚家の創業は古く、江戸中期には紙商を営んでいたと言われており、明治期には県内有数の紙問屋として知られ、現在も変わらず営業を続けている。見世蔵は明治末期の大火により改築されたもの。2階建の切妻・平入りで、外部は黒漆喰塗、出桁造の三重蛇腹の軒、箱棟や影盛を高く上げた重厚な外観となっており、栃木における明治末期の典型的な見世蔵。土蔵は住居よりの1棟のみ江戸末期建築と確認されている。~栃木市観光資源データベース蔵ナビ!HPより抜粋転載~

とちぎ蔵の街観光館

蔵の街観光の拠点施設として、かつて「八百金」の名で知られた荒物・麻問屋を営んでいた田村家を改築・改修した施設。現在は観光案内と土産品販売を行っている。大通り沿いの見世蔵の奥には住居と6つの土蔵があり、最も古い土蔵は江戸末期、それ以外は明治中期のもの。外観は黒漆喰塗で、規模・意匠・材質など、栃木では群を抜く貴重な遺構となっており、市有形文化財に指定されている。~栃木市観光資源データベース蔵ナビ!HPより抜粋転載~

とちぎ山車会館


平成7年(1995年)2月に開館。栃木県指定有形民俗文化財の山車の保存も兼ねて祭りの興奮をいつでも楽しめるようにと、3台の山車を常時展示し、定期的に他の3台と入れ替えをしながら、ハイテクを駆使して秋まつりを再現している。二階は、山車の資料に関する展示室。

蔵の街市民ギャラリー(栃木県栃木市万町)


下の建物は、約200年前に建てられた土蔵3棟を改修して、平成15年から「とちぎ蔵の街美術館」として使用してきた施設をリニューアルし、令和3年11月1日に「蔵の街市民ギャラリー」として開館。

善野家土蔵(通称 おたすけ蔵)

善野家(釜佐)は、先祖が近江の出身で、江戸時代の延享年間(1744~1748)に同じ町内の善野喜兵衛家より分家し、その後、米などを扱うほかに大名などを相手とした質商も営んで、栃木を代表とする豪商となった。蔵の通称「おたすけ蔵」は、江戸時代末期に困窮人救済のため多く銭や米を放出したことに由来するとも、また失業対策事業としての蔵の新築を行ったためと言われている。蔵は土蔵2階建て、切妻、妻入り、桟瓦葺き、外壁は黒漆喰で仕上げ、大きさは東蔵(桁行6間、梁間2.5間)、中蔵(桁行6間、梁間2.5間)、西蔵(桁行8間、梁間3間)、3棟の土蔵が平行に建てられていることで印象深い景観を作り出している。建築年は東蔵が文化年間(1804~1818)、中蔵が天保2年(1831)、西倉が天保11年(1840)に建てられ、後に3棟連続の下屋庇を設けた。善野家土蔵は、江戸時代後期に建てられた土造建築の遺構で栃木の優良な町並みにとっても重要な事から平成12年(2000)に栃木市指定文化財に指定されている。

帰りにもう一度、蔵の街遊歩道を歩きました!! こいのぼりスイスイ~。