谷中七福神巡り <番外編>


谷中七福神巡りの途中で出会った神社、お寺を訪ねました。-2022.01.04-

富士見坂(荒川区西日暮里)


坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。(シール張り)都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

現在は、残念ながら富士山は見えないそうです😢。

<日暮里富士見坂の路上写真展>

富士見坂の歩道鉄柵に、12枚の写真パネルが展示されている

諏訪神社(荒川区西日暮里)


信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。旧暦7月27日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷でお神酒をそなえて帰座したと伝えている。拝殿の脇には元禄12年(1699)銘・元禄14年(1701)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

浄光寺(荒川区西日暮里)


江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)

山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文2年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同5年以降徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「山門」

「六地蔵」<荒川区登録文化財>

養福寺(荒川区西日暮里)


養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「仁王門」

宝永年間(1704~1711)の建立と伝え、

門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置されている

「本堂」

観音寺(台東区谷中)


赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺

赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。 寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。 本堂に向かって右側にある宝篋印塔は四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種字(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永四年(1707)3月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む。台東区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「山門」

「本堂」

「大師堂」

「赤穂浪士供養塔」

「鬼瓦」見つけました♬

観音寺の築地塀 <国登録有形文化財>


築地塀(ついじべい)とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言う。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で作られたものを呼ぶ。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられた。観音寺の築地塀は、幕末の頃に築かれたもので、当寺は観音寺の境内の東面と南面を囲ってましたが、南面のみ現存している。大正13年(1923)に起こった関東大震災により一部倒壊したが、第一次世界大戦終戦から始まった戦後恐慌によって物資も少ない折、文化財保護の観点からも、できうる限り元の資材を使用して倒壊箇所が組み直された。その後、経年による細かな損傷は見られたが、補修を重ね、江戸時代往時の姿を今日に残している。そうした、江戸時代から続く有数の寺町である谷中の当時の面影を伝え、歴史的景観に寄与するということから、平成12年(2000)に国指定の有形文化財に登録された。~観音寺HPより抜粋転載~