谷中散策


読売新聞(2020.6.10夕刊)「旅」*特別編 本のトラベラー に掲載されていた "幸田露伴 在りし日の谷中五重塔" を見て谷中を散策してきました。まず、当時「感應寺」(現「天王寺」)に五重塔があった「天王寺」からスタート。次に、現在「谷中霊園」の敷地内にある「五重塔跡地」、その後、徳川慶喜をはじめとする著名人が眠る「谷中霊園」の墓所へ。それから千駄木でランチして下町を散策しました!!  -2020.06.24-

出典:読売新聞

護国山尊重院 天王寺(東京都台東区谷中)


日蓮上人はこの地の住人、関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長燿は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。「東京府志料」は、「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。「天王寺」は、都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒不動竜泉寺、湯島天満宮の富くじとともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄12年(1699)幕府の命令で、「感應寺」は、天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、「天王寺」と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和32年(1957)7月6日、惜しくも焼失してしまった。(台東区教育委員会) ~「天王寺」案内板より転載~

「山門」

「銅像釈迦如来坐像」

<台東区有形文化財>

本像については、『武江年表(ぶこうねんぴょう)』元禄三年(1690)の頃に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門 と刻まれている。また、同銘文の中に「日遼(にちりょう)」の名が見えるが、こらは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)左側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保七年〔1836〕刊)の天王寺の頃には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を設置し、現在に至る。なお、「丈六仏(じょうろくぶつ)」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。平成五年に、台東区有形文化財 として、区民文化財台帳に登録された。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

「本堂」

「沙羅双樹」

「毘沙門堂」

焼け残った「五重塔」の下層の木材を再生して、昭和36年に建てられたもの。毘沙門天像の尊像は、戊辰戦争(上野戦争)の際には吉祥天、善膩師童子(ぜんにじどうじ)の脇侍とともに四谷・安禅寺(現・東京都新宿区愛住町)に避難していたため、戦禍を免れて現存している。また、「毘沙門堂」に祀られている毘沙門天像は「谷中七福神」の中で最も古いと云われている。

「学童守護のお地蔵さま」

「六面六地蔵石幢」

「庚申塔」<台東区有形民俗文化財>

庚申塔は、庚申信仰に基づいて立てられた建造物で、江戸時代以降、盛んに造立された。庚申信仰とは、六十日に一回めぐってくる庚申の日の夜を寝ずに過ごすことで、長寿延命や無病息災を祈る信仰行事である。地域ごとに庚申講が組織され、庚申の晩に議員が集まって行事が行われた。区内には六十一基の庚申塔が現存している。天王寺には十基の庚申塔が立てられている。うち一基は門前の小祠内に安置されている。これらは寛文3年(1663)から正徳5年(1715)にかけて造立されたもので、議員の名前が見られる。そこには谷中村講とあることから、地域の住民が組織したものと考えられる。このように庚申塔は、地域に根ざした人々の信仰を明らかにする貴重な資料であることから、本塔を含む区内の庚申塔が、平成19年3月に台東区有形民俗文化財として台東区区民文化財台帳に登録された。台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「向唐門」

天王寺五重塔跡地 <東京都指定史跡>(東京都台東区谷中)


谷中の「天王寺」は、もと日蓮宗・長輝山(ちょうようざん)「感応寺尊重院」と称し、道灌山の関小次郎長輝に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の「護国山天王寺」と改宗したのは天保4年(1833)のことである。最初の「五重塔」は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された「五重塔」は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一条二尺八寸(34.18m)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京しに寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月6日放火により焼失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺7寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。~下記「東京都教育委員会」案内板より転載~

東京都指定史跡天王寺五重塔跡


焼失前の天王寺五重塔全景

出典:東京都教育委員会HP

谷中霊園(東京都台東区谷中)


明治7年(1874年)に明治政府が「谷中墓地」として開設。その後東京市に移管され、昭和10年(1935年)に「谷中霊園」と改称された。また、都立「谷中霊園」と一体となっている「天王寺墓地」「安立院墓地」「了俒寺」及び「寛永寺」墓地の一部を含め、約10万㎡におよそ7,000基の墓があり、徳川家15代将軍慶喜、一橋徳川家や横山大観、渋沢栄一のどの歴史上の著名人が眠る。

徳川慶喜の墓 <東京都指定史跡>(東京都台東区谷中寛永寺墓地内)


徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し、慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は、江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には、公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。~下記「東京都教育委員会」案内板より転載~

門には「三つ葉葵」の紋

中央左「徳川慶喜公墓」

中央右「慶喜公妻・徳川美賀子之墓」

「徳川家之墓」

※ 歴代の将軍(徳川家康と徳川家光を除く)は、港区芝の「増上寺」か徳川将軍家の菩提所「寛永寺」に埋葬されているが、徳川慶喜は、「寛永寺」の谷中霊園墓地内に埋葬されている。徳川慶喜は、遺言に明治天皇に感謝の意を示すため、自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう残した。そのため、「徳川慶喜の墓」は、皇族の墓と同じような円墳型をしている。

徳川御三卿(一橋・田安・清水徳川家)の墓所(東京都台東区谷中寛永寺墓地内)


勝精の墓


「徳川慶喜の墓」の手前にある徳川慶喜の息子「勝 精(かつ くわし)の墓」。勝 精とは徳川慶喜の十男であり、勝海舟の養子となった人物。勝海舟は、長男小鹿が若くして亡くなったため、徳川慶喜から、新村信との間に生まれた十男の精を養子にもらい、勝海舟の孫娘となる伊代子と結婚させた。「勝海舟の墓」は、大田区の洗足池近くにあるので、勝精は、養父のそばではなく、実父母のそばに眠っていることになる。

渋沢栄一の墓


新しい1万円札の顔として選ばれ、「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一。明治から大正にかけて活躍した実業家で昭和6年(1931)に92歳の天寿をまっとうした。「渋沢栄一の墓」は、「谷中霊園」の乙11号1側にある渋沢家墓所に眠っている。以前は塀で囲まれ、門があり、命日にしか一般開放されていなかったとのことだが、現在は塀が取り壊されている。左から2番目が「渋沢栄一の墓」。

谷中銀座商店街


経王寺(東京都荒川区西日暮里)


「経王寺」は、日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。~下記荒川区教育委員会案内板より転載~

山門

「山門」に残る銃弾の痕

参道