北区・文京区散策 -桜-


北区の「無量寺」文京区の「江岸寺」、「吉祥寺」。桜🌸咲くお寺を巡ってきました。-2024.04.06-

無量寺(北区西ヶ原)


無量寺は佛寶山西光院(ぶっぽうざんさいこういん)と号し、真言宗豊山派に属する寺院。創建年代は不明だが、調査によって十四世紀頃の板碑が多数確認されている。また、『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことや、元禄14年(1701)4月に五代将軍綱吉の生母桂昌院(けいしょういん)が参詣たこと、寺号が九代将軍家重の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことが記されている。本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。江戸時代には、江戸六阿弥陀詣(ろくあみだもうで)(豊島西福寺・沼田延命院・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院・亀戸常光寺)第三番目の阿弥陀として親しまれた。人々は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽みながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたよう。阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されている。言い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから「足止め不動」として信仰されるようになった。また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られている。~下記案内板より抜粋転載~

「山門」

参道脇のお地蔵様

「ことぶき地蔵尊」

「大門」

「中門」

「中門」をくぐり「本堂」へと思ったら、檀家さんらしい方に"檀家信徒以外は立入禁止です"と注意を促され、中には入れませんでした。残念でした😢

江岸寺(文京区本駒込)


江岸寺(こうがんじ)と鳥居家

曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった。忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、家康から伏見城の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田三成等の総攻撃を受けた。これが関が原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力付討死し、城も落ちた。その子忠政は大坂の陣では、江戸城の留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英(ただてる)の時、下野国壬生4万石に移封された。鳥居氏の子孫、鳥居忱は壬生藩の江戸の大名屋敷に生まれた。壬生藩の貢進生(藩の奨学生)として大学南校(東大の前身)に学んだ。卒業後、音楽取調掛(東京音楽学校の前身)伝習生として、アメリカ人の教師メーソンに洋楽を学んだ。東京音楽学校教授を勤めるかたわら、多くの作詞をてがけた。中でも「箱根八里」は滝廉太郎 の作曲で、多くの人々に愛唱されている。鳥居忱はここに眠っている。-郷土愛をはぐくむ文化財-(文京区教育委員会)~下記案内板より抜粋転載~

「本堂」

扁額は「江岸禅寺」。本堂前には花まつり(4月8日は、お釈迦様の誕生日を祝うお祭り)の「花御堂」(はなみどう)。別名「潅仏会(かんぶつえ)」とも言われ、甘茶を満たした灌仏桶の中央へ安置した誕生仏像に柄杓で甘茶をかけてお祝いするのだそうです。お釈迦様は生まれてすぐに右手は天、左手は地を指し「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられている。甘茶を頂きました😊。

「三界萬霊等」(さんがいばんれいとう)

「墓所」

「庚申塔と六地蔵」

「鳥居家之墓」

「鳥居忠政供養塔」


旧 駒込吉祥寺町


旧 駒込吉祥寺町 (昭和41年までの町名)

むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が移ってきた。そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延亨2年(1745)から町奉行支配となった。明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。江戸時代、吉祥寺には栴壇林(ぜんだんりん)といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒沢大学に発展)。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居燿蔵、や川上眉山らの墓がある。文京区 ~下記案内板より転載~

吉祥寺(文京区本駒込)


曹洞宗 諏訪山 吉祥寺

長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当寺の幕府の昌平坂学問所と並び称された。

【古い堂塔】山門:享和2年(1820)再建、江戸後期の特色を示す。経蔵:文化元年(1804)再建、旃檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。墓所二宮尊徳(江戸末期の農政家)、鳥居燿蔵(江戸南町奉行)、榎本武楊(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)、川上眉山(小説家) ‐郷土愛をはぐくむ文化財‐ 文京区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「山門」

享和2年(1820)再建、江戸後期の特色を示す。

「山門」裏

「参道」

「茗荷稲荷」

駒込吉祥寺「茗荷稲荷縁起」

当吉祥寺は明暦大火の際府内よりこの地に移り、家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に稲荷権現あり、寛文年間疫病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、茗荷を断って心願する者多し。去る戦災に諸堂消失せるも昭和二十八年この地に再建、堂裏にある稲荷権現碑は下総国府台八十右エ門なる者が文久年間建立したものなり。 駒込吉祥寺 ~下記案内板より転載~

「お七・吉三の比翼塚」

「吉祥寺大仏」

享保7年(1722年)鋳造の青銅製の釈迦如来坐像

像高2.93m、総高4.17m。

吉祥寺「経蔵」一棟

<区指定有形文化財(建造物)>

江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所 栴檀林 として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元)古いきまりによって再建したものと考えられる。旧経蔵は、1686年(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に焼失と伝えられる。1933年(昭和8)に大修復を行った。屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた「二重宝形造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。蔵内に、経典を収蔵する八角形の転輪蔵がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の唯一の経蔵として貴重である。 文京区教育委員会  ~下記案内板より抜粋転載~

「狛虎」


「鐘楼」


「本堂」

「狛犬」


「扁額」は諏訪山

花まつりの「花御堂」(はなみどう)

「花御堂」とは、花で飾りつけた小さなお堂で、「花まつり」の名称の由来にもなっている。お釈迦様が誕生したルンビニ(現在ネパール地方)の花園を模したものだそうです。

「書院」

「二宮尊徳の墓碑」

天明7年~安政3年(1787~1856)、相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。人物を認められて小田原藩領下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中、病死する。彼の思想・行動は後に「報復社運動」として展開するようになった。東京都文京区教育委員会

~下記案内板より転載~