護国寺・雑司が谷散策


「護国寺」から雑司が谷へ。「雑司ヶ谷霊園」、「雑司が谷旧宣教師教師館」、「鬼子母神堂」を散策して来ました。歴史に触れることができた一日でした♬ -2020.10.21-

護国寺(文京区大塚)


当寺の創建は天和元年2月(1681)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を「神齢山悉地院護国寺」と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌2年、堂宇は完成した。明治16年、大正15年と火災で堂宇の多くを失ったが、「観音堂」(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、「薬師堂」、「大師堂」、「多宝塔」、「忠霊堂」や創建当時のものと伝えられる「仁王門」、「惣門」。そして「中門」と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。 ~護国寺HPより転載~

「仁王門」

八脚門、切妻造りで丹塗。元禄期造堂の本堂、薬師堂や大師堂などから成る、徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立は、元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられ、正面(南側)の両脇に金剛力士像。(右側は阿形あ・ぎょう像・左側は吽形うん・ぎょう像)、背面(北側)の両脇には二天像(右側は増長天・左側は広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。~護国寺HPより抜粋転載~

金剛力士像

右側は阿形像・左側は吽形像

「唐銅蓮葉形手洗水盤一対二基」

この手洗水盤は、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院よりの寄進である。当山の縁起伝承と明治末期から昭和初期の鋳金家・金工史家香取秀真氏の調査記録に、元禄10年(1697)頃に鋳造され、江戸鋳物師椎名伊豫良寛の製作と記載されている。この手水舎は、江戸時代後期に刊行された「江戸名所図会」にも描かれており、江戸元禄期から明治大正期には当山境内の湧水を利用する大変珍しい自噴式手洗水盤でした。~案内板より転載~ 水盤に四季の風景が映る

「不老門」

昭和13年(1938)4月建立、三尾邦三氏の寄進。様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され「仁王門」と「本堂」の中間に建立された。施工は仰木、川面建築設計事務所、また額面「不老」の二字は徳川家達公の筆によるものである。~護国寺HPより抜粋転載~

振り返ってみると

境内に安置された仏像や寺宝

大仏(毘盧遮那仏)

筑波山大権現(現・筑波山神社)の

別当・護持院から移されたもの。

「観音堂」(本堂)<国重要文化財>

現在の「観音堂」(本堂)は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。~護国寺HPより抜粋転載~

「月光殿」<国重要文化財>

大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築。桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物である。

「多宝塔」

昭和13年4月の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写で建築設計は仰木敬一郎氏、本尊は團芳子氏寄贈の大日如来像を安置、彫刻者は長谷川栄作氏、内部円柱の仙画金銀五彩の紋様は、田中親美氏設計監督により完成。~護国寺HPより抜粋転載~

「薬師堂」

元禄4年(1691)の建立。一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。~護国寺HPより抜粋転載~

「霊廟」

平成8年(1996)9月完成、同年10月に霊廟落慶、並びに聖観世音菩薩(日本芸術院会員・彫塑家雨宮敬子作)の開眼法要が厳かに執り行われた。地下3階1,672基の納骨室と遺骨を合祀する納骨所も完備。~護国寺HPより抜粋転載~

「三条實美墓」

「大隈重信墓」

「鐘楼」(付梵鐘)<区指定建造物>

鐘楼の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造の形式で江戸時代中期の造営である。都内同種の遺構がほとんどが失われているなかで、貴重な文化遺産である。またこの鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたものである。銘文は、五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が、将軍家の祈願寺として、幕府のあつい庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。文京区教育委員会~下記案内板より転載~

「大師堂」

元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して「大師堂」にしたものである。装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっている。真言宗伽藍における「大師堂」の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。~護国寺HPより抜粋転載~

「一言地蔵尊」

願いを一言だけ聞いてくれるお地蔵さま

通常扉が閉まっているが、

お参りのときに開けて、

願いを伝えたあとは扉を閉める

「身代地蔵尊」

「六地蔵」

「筆塚」

「針供養塚」

「惣門」<区指定有形文化財>

この惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という、性格をあわせもっている。形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容をもっている。当時が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映している。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財である。文京区教育委員会~下記案内板より転載~

富士塚「音羽富士」

都内で唯一寺社内にある富士塚

山頂「富士浅間神社」の祠

雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋)


明治5年(1872)神葬墓地として開設され、明治7年に共葬墓地となった都営霊園。 面積約10万㎡の霊園内には、緑豊かな樹々や四季折々の草花が咲き、副都心池袋に隣接する区域とは思えないほど静かで落ち着いた佇まいを見せている。また、江戸時代、霊園西側に将軍家の鷹狩り用の鷹を飼育する御鷹部屋があり、今も緑の枝を広げる「御鷹部屋の松」にその名残を見ることができる。 墓域内は著名人の墓が数多くあり、夏目漱石をはじめ、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月等の日本文学史にその名を刻む作家たちや、漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎、開明派の幕臣小栗上野介忠順、抒情画家竹久夢二、詩人サトウハチロー、自由学園を創設した羽仁もと子・吉一夫妻、言語学者金田一京助等錚々たる面々がこの地に眠っている。

雑司ヶ谷霊園MAP

出典:豊島区文化観光課パンフレット

赤レンガの「旧宣教師館通り」


雑司が谷旧宣教師館<都指定有形文化財>(豊島区雑司が谷)


明治時代に布教のため来日したアメリカ人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブにより、明治40年(1907)に自宅兼布教活動の拠点として建てられたもので、区内最古の木造洋風建築。 木造総二階建て、カーペンターゴシック様式を用い、屋根窓に半円アーチを施して下見板張りの外壁をもつこの建物は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅を基調としており、明治時代の我が国における外国人住宅の一つの典型と言える。 昭和57年、保存を訴える住民運動に応え区が土地と共に買いあげ、保存修理工事後、一般公開。 平成4年に区指定文化財、同11年に東京都指定有形文化財に指定された。

木造2階建てで、3面に破風板付の切妻屋根を見せ、テラス状の開放的な玄関ポーチ、大きなガラス窓と下見板張りにペンキ塗りの外観。意匠的には19 世紀以降にアメリカで用いられたカーペンターゴシック様式で、素朴な装飾が特徴と言える。~東京都教育委員会HPより転載~


ベイウィンドウ:玄関わきの張り出し窓

1階は斜めに、

2階は直角に変化をつけている。

出典:雑司が谷旧宣教師館パンフレット

室内は、1階・2階ともに3室ずつで、1階は食堂・居間・教会事務室に、2階は寝室に使用されていた。3室の中心に共用の暖炉を配置した合理的な造り。また建物の3方を階段ホール及びサンルームでぐるりと囲み、明るく居心地の良い空間となっている。室内は、暖炉がアールヌーボー風の装飾タイル等で華やかに設えられているのが目を引き、また2階寝室の天井に竹の格縁を用いるなど和風の意匠も楽しめる。東京都教育委員会HPより転載~

ガーデン

"少女" 制作:河野 新

"海のゆりかご" -耳を澄まして-

制作者・寄贈者:谷本めい

シュウメイギク(秋明菊)

鬼子母神大門ケヤキ並木


天正年間(1573~92年)に雑司ヶ谷村の住人長島内匠が奉納したものと言われ、推定樹齢600年を超える古木は、現在は4本を残すのみとなっている。往時の参道両側には、茗荷屋、蝶屋、武蔵屋などの料理茶屋が並び、『遊歴雑記』にその繁盛ぶりが記されているほか、歌川広重画『江戸高名会亭尽』など浮世絵にも描かれている。東京都の天然記念物に指定されている。

「雑司が谷みみずく公園」

鬼子母神堂<国指定重要文化財>(豊島区雑司ヶ谷)


当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)5月16日、清土(現在の文京区目白台)の地の辺りより掘り出され、その後、東陽坊(後に法明寺に合併)という寺に納められました。安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々がお堂を建て今日に至っています。現在の「本殿」は、寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸広島藩主浅野光晟公に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。また、平成28年開堂三百五十年の折には、国の重要文化財の指定を受けました。~鬼子母神堂HPより転載~

参道

「仁王像」

この二像は丈と幅が同寸といわれる珍しい姿で、もと、盛南山という寺の観音堂にあったものが寄進されたと伝えられている。

「百度石」

「本殿」「拝殿」

本殿:三間社流造で、「拝殿」・「相の間」を備えた、いわゆる権現造。

拝殿・相の間:元禄13年(1700)の建築で、正面側は軒唐破風、邪鬼彫物の付いた千鳥破風で装飾され、また正面の吹放し部分も、龍彫物、獅子鼻、象鼻、手挟、彫物欄間等で派手に飾られている。元禄の刻銘のある寄進物が境内や堂内に数多く現存し、講中等の幅広い寄進があったことが分かる。

「赤い天邪鬼(あまのじゃく)」

天邪鬼:人間に対して悪戯を働き、相手の真理を察して口真似をする小鬼の一種。 仏教では、四天王や明王などの武尊が天邪鬼を足で踏み付けて懲らしめる立像が数多く存在し、煩悩や悪心の権化として扱われている。

「大黒堂」

みみずく像」とみみずくベンチ

みみずく像」:鬼子母神のみみずく "鬼子母神鐘がったらみみずくがみんなの家庭せ運ぶ"。境内で販売されている"すすきみみずく"も有名。

雑司が谷の郷土玩具"すすきみみずく"

すすきの穂で作られたみみずくの人形。母の病気が治るようにと鬼子母神へ毎日お参りしていた娘への「お告げ」から誕生した逸話があります。お告げに従った娘は作ったみみずくを売り、母のために薬を買うことができたことから商売繁盛の縁起物としても知られています。 ~雑司が谷案内処パンフレットより転載~

上記写真: urban life metro

「法不動堂」

「武芳稲荷堂」

倉稲魂命(うけみたまのみこと)を

祀った古社

「鬼子母神の大公孫樹」

高さ約33m、幹の周囲は約11m、樹齢700年という江戸時代から人々に敬われてきたご神木、雄株の公孫樹(いちょう)。東京都指定天然記念物。

豊島区景観重要樹木:第1号に指定


日本で最古の「駄菓子屋」

境内にある江戸時代から続く

創業1781年の"上川口屋"