小田原散策Ⅰ 小田原城


戦国時代に広く関東の地を治めた小田原北条氏。先日訪れた小田原北条氏の三代目、氏康の三男、北条氏照が築いた山城「八王子城跡」の続編として、本拠「小田原城」のある小田原を散策してきました。歴史ある「小田原城」、二宮尊徳を祀った「報徳二宮神社」「松原神社」、情緒あふれる「かまぼこ通り」や小田原城下の「街並み」など、たっぷり一日を楽しんできました♬ -2023.11.09-

上記マップ:小田原市HPより転載

小田原城(小田原市城内)


小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられている。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張された。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築城された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達した。北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし大久保氏が改易されると城は破却される。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新される。稲葉氏3代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続した。明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体された。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっている。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定され、また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられている。~下記案内板より抜粋転載~

小田原城案内図

上記案内図:小田原城HPより転載

「二の丸東堀」

<国指定史跡 小田原城跡>

小田原城は、江戸幕府の三代将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備された。二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でもっとも大きなもので、幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで続いていた。また、西は常盤木橋、南は南曲輪の前までつながっていた。現在の石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものだが、右の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていた。なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画があったが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができた。 小田原市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「学橋」(まなびばし)

「小田原城跡」

<国指定史跡 小田原城跡>

【小田原城の歴史】小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には、周囲9Kmにわたって、塀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展した。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されている。小田原城は、中世の城と近世の城が同じ場所に重複した存在する城郭であることが特徴といえる。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、二の丸は皇族の御用邸になるが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉橋や銅門、馬出門、御用米曲輪の復元整備が進められている。 小田原市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「馬出し門」

馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続した。明治時代には御用邸の正門でしたが、関東大震災で倒壊した。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備された。~下記案内板より抜粋転載~


「住吉掘」

お堀に沿って歩いて「住吉橋」へ。

「住吉橋」

銅門枡形内仕切門と馬屋曲輪の間に掛けられた橋。平成2年(1990)復元、平成30年(2018)改修。

「渡櫓門」(わたりやぐらもん)

「銅門」(あがねもん)

江戸時代の二の丸正門に位置づけられる門。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていた。桝形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成される。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれている。地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体された。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元した。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われている。~下記案内板より抜粋転載~

「銅門 土塀模型」

この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したもの。使用する木材や白壁の材料である、土の収縮を乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たした。皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合より寄贈を受けたものです。~下記案内板より抜粋転載~

「伝 銅門礎石」

この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石。使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石とした。箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できる。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tある立派なものです。~下記案内板より抜粋転載~

「小田原城跡のビャクシン」

<小田原市指定天然記念物> 

所在】小田原市城内3-22

樹相目通り幹囲:3.1m、株元周囲:約3.9m、樹高:約15m、枝張り状況:東西約12m、南北約15m

ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。小田原市教育委員会

「二の丸跡」

<史跡小田原城跡>

江戸時代、多くのお城では藩主の住まいは本丸にありました。しかし、小田原城の本丸には徳川将軍家のための御殿があったため、小田原藩主の住まいは二の丸にあった。二の丸の建物は「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割があった。二の丸御屋形は、寛永10年(1632)小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、唐門や能舞台を備えた御殿造りの壮麗な建物となった。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊・炎上したことが、発掘調査でも確認されている。その後、規模を縮小して再建されるが、幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、本丸御殿に代わる将軍家宿所としても用いられた。明治に入り廃城となった後、同34年(1901)に御用邸が建て替えられましたが、大正12年(1923)の関東大震災でほぼ全壊。そして、その後、昭和4年(1929)に小田原第二尋常高等小学校(後の城内小学校)が建設された。平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外へ移転したが、残った旧講堂は歴史見聞館として使われている。~下記案内板より抜粋転載~

「小田原城跡のイヌマキ」

<小田原市指定天然記念物>

【所在】小田原市城内3-22

樹相】目通り幹囲:4.5m、株元周囲:約6m、樹高:約20m、枝張り状況:東西23m、南北13m

イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られる。この木は、幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5mのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまった。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。~下記案内板より抜粋転載~

「小田原城と小田原合戦攻防図」

天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲される。

●時代を画した小田原合戦:織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていった。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原城開城を決意する。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成った。

●戦闘の経過:天正18年(1590)3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲した。また、毛利輝元(本人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻。これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固める。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移す。本隊の猛攻に耐えて小田原城総構の防衛線を死守するも、別働隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏。

● 小田原合戦の意味:北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていた。そして、その本城である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」であった。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」。北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わる。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻る。そして、自国を整備し、城郭の普請を行った。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。~下記案内板より抜粋転載~

「本丸東堀と常盤木橋」

江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていた。本丸の東側を画する堀を本丸東掘と呼んでいる。本丸東掘は、発掘調査の結果、幅20m以上の水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されている。現在は、堀の形を平面表示している。文久図には、この場所に本丸と二の丸をつなぐ木製の橋が描かれており、「常盤木橋」と名付けられていたことがわかる。これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートが正面口になる。常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現された。常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができる。~下記案内板より抜粋転載~

「常磐木橋」

「常磐木門」(ときわぎもん)

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。元禄16年(1703)の元禄地震で門は崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されたが、明治3年(1870)の小田原城廃城の際に解体撤去された。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれている。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松」(おおまつ)として残っている。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971)に再建した。~下記案内板より抜粋転載~

「本丸跡」

小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守台、中央には本丸御殿があった。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていた。東側の門は、本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門呼ばれていた。本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられる。しかし小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建された。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建されることはありませんでした。現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木がある。元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれているが、巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えている。~下記案内板より抜粋転載~

「天守閣」

「天守」とは城の象徴ともいえる建物で、城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられた。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのこと。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられた。寛永11年(1634)には京都に向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っている。元禄16年(1703)の大地震で天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群ととして再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保った。現在の「天守閣」は、昭和35年(1960)に市制20周年記念事業として鉄筋コンクリート造で復興された。復興に際しては、江戸時代の天守引き図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄を設けた。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われた。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介している。標高約60mの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島や房総半島までを望むことができる。~下記案内板より抜粋転載~

天守閣入口階段上からの景色

滑り落ちた本丸の石垣

<史跡小田原城跡>

ここは二の丸とともに本丸の周りに配置された曲輪のひとつ「南曲輪(鷹部屋曲輪)」。南曲輪南側の堀(蓮の花が咲く堀)に面する両側の角には二重の櫓がそびえ、小田原城南側の防備を固めていた【図1】。現在は埋まっているが、この看板付近には本丸斜面の裾をめぐる掘幅9間(約16.3m)、深さ2間半(約4.5m)の「本丸堀」があった。南曲輪と本丸とはおよそ14mの高低差があり、堀から立ち上がった法面(斜面)の上部には石垣が築かれていた【図1~3】。この辺りの石垣は、寛永10年(1633)に築かれた本丸の石垣が、元禄16年(1703)の元禄地震などによる被災と修復を経て、関東大震災で滑り落ちたもの。

大正12年(1923)、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の激震が発生。小田原での被害は甚大で、明治34年(1901)から城内に所在した御用邸の建物も倒壊し、小田原城の多くの石垣も崩壊した。この辺りの石垣も崩壊したが、偶然にも積み上げられていたままの姿で滑り落ちたため、江戸時代の小田原城の石垣の姿を良く残している。石垣のコーナー部分の積み方や排水口もそのままの姿で確認でき、小田原城本来の石垣の積み方や関東大震災の被害の大きさを伝える貴重な遺構です。~下記案内板より抜粋転載~

「御茶壺曲輪」 (おちゃつぼくるわ)

御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていた。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされる。~下記案内板より抜粋転載~

「御感(ぎょかん)の藤」

<小田原市天然記念物 指定>

<かながわの名木百選 選定>

 樹名ノダフジ(マメ科)。この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩ののもので、明治維新後、市内板橋の森本氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられている。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまった。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから、「御感の藤」と呼ばれるようになった。大正11年3月、小田原保勝会 の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませている。樹齢は約200年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木だが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。小田原市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「小峯橋」(御茶壺橋)

この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言う。現在では石橋に付け替えられ「御茶壺橋」という名称でも親しまれている。「御茶壺橋」という名前は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家にお茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来する。行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壺と購入代金が運ばれた。そして、お茶を詰めた復路の道中は、お茶が湿気ないように河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされる。小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったとされている。~下記案内板より抜粋転載~

「小田原城 箱根口門跡」

城の南側、足柄街道に面してあるのが、三の丸の出入口のひとつである「箱根口門」で、現在は石垣と土塁が残り、その上に石碑がある。江戸時代の三の丸には大手門、幸田門、箱根口門の三つの堅固な城門があり、箱根口門はその一つ。

「大手門跡」

<史跡小田原城跡>

この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所にある。東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいた。大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られた。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門が建設され、延宝年間(1673~1681)には全面に冠木門が普請された。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は、銅門とほぼ同じ。「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」)」によると、渡櫓門の前には枡形勢溜が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防衛力を強化している。城外とは幅9間半~11間(約17~20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていた。なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。~下記案内板より抜粋転載~

「鐘楼」

この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。時を知らせ津「時の鐘」は長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行所から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。この鐘は初め浜手御門(ここより約150m南/ 松原神社の西側)のところにあったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、金は応召される (「時鐘応召」と呼ばれた)。その後、寺宝は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないという事で、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘が造られた。これが現在の鐘である。~下記案内板より抜粋転載~

北条氏政・氏照の墓所(小田原市栄町)


北条氏政は、北条氏四代の領主、氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。(現在、永久寺所有)その後放置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633~1685)北条氏追福のため整備されました。大正12年(1923)の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。小田原市教育委員会~下記案内板より抜粋転載~

【五輪塔】

 右(大)伝 氏政夫人の墓 中央(中)伝 氏政の墓 左(小)伝 氏照の墓

【生害石】

 五輪塔前の平たい石 この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられている。 ~下記案内板より抜粋転載~

 

「幸せの鈴」

箱の中の「鈴」に、民を思う領主の優しい心が、きっと宿っています。ここに眠る北條氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。願いをかけて「鈴」を持ち帰り、かけた願いがかなったら、「幸せの鈴」を結びに来てください。「幸せの鈴」がいっぱいになれば、ここに眠る領主での、なによりの供養となることでしょう。~下記案内板より抜粋転載~

「報徳二宮神社」「松原神社」「かまぼこ通り」「小田原城下の街並み」は、 小田原散策Ⅱ へ。