大沢の里・野川公園・小金井散策Ⅱ


GW第二弾のウォーキング。三鷹市「大沢の里」のこいのぼり🎏をスタートに、「野川公園」を野川に沿って上流方向に「武蔵野公園」脇を歩いて小金井まで散策。都立「野川公園」は、小金井市、三鷹市、調布市の3市にまたがる大きな公園で公園の中を野川が流れる。また、都立「武蔵野公園」は、小金井市府中市にまたがる公園で野川に沿って広がる草原や雑木林の緑あふれる公園。野川沿いの散策路は緑と自然がいっぱい!! ゆったりとした時間に包まれました♬ 小金井では、"こがねいてくてく歴史散策!小金井まち歩きマップ➄"「野川と湧水めぐりコース」を歩き、人混みのない充実のGWでした!! -2022.05.05-

小金井市町おこし協会パンフレットより転載

天満宮 小金井神社(小金井市中町)


創建は元久2年(1205年)武蔵野開拓にあたり、菅原道真公の徳を敬い社殿を造り、天満宮としたと伝えられている。天正11年(1583年)賀茂下出雲入道勝重という人が、小金井の地に住み大いに開拓に努力し、里人と共に資金を集め社殿を修築した。宝暦元年(1751年)当時の名匠である江戸神田に住む粉川市正康信に、道真公の坐像(高さ42.4センチ)の彫刻を依頼した。これが現存し、御神体として祀られている。御本堂は宝暦年間の造営であるが、拝殿は明治27年に建てられてたものである。その後、御本殿は平成4年に氏子の協力をえて改築工事が施されている。~小金井神社HPより抜粋転載~

「鳥居」

「由緒」

「拝殿」

「飛梅」

この梅の木は、その昔大宰府の梅より

根分けされたものの一つであると伝わる

「水天宮」

「稲荷神社」

御神祭は宇迦之御魂神で「宇迦」とは「食べもの」を意味し、日本人の主食の米の生成をお守りくださる神様。現在は、五穀豊穣、産業興隆、除災招福の神として崇敬されている。

「大鷲神社」

御神祭は天児屋根命で「お酉さま」と呼ばれ、商売繁盛の神様。11月酉の日には「お酉さま祭り」を執り行っている。大鷲神社の社殿は、旧中島飛行機三鷹研究所内にあった社を譲り受けたと伝わっている。

「石臼塚」

昭和48年生活用具であった臼を一同に集めたもの。臼には、米を脱穀する「からうす」、精白する「陣がらうす」、餅をつく「たちうす」、精粉する「石うす」がある。全国には筆塚、針塚は数多くあるが、石臼塚は非常に貴重。小学校の教材にもなっている。

「力石」

天保9年9月氏子奉納

金蔵院(小金井市中町)


金蔵院は今から約450年余前の永禄年間以前に開山した真言宗豊山派の寺院で、十一面観自在菩薩を本尊としてお祀りしている。金蔵院の正確な開山時期は不明だが、永禄年間当時の住職である堯存(ぎょうそん)が1566年(永禄9年)に遷化したとの記録が残っており、それ以前の開山だと推察され、小金井市で現存する最古の寺院といわれている。~金蔵院HPより抜粋転載~

額縁絵のよう

「本堂」

十一面観自在菩薩様をお祀りする本堂は、開山以来度々の火災に遭ったが、享和3年(1803)の火災の後、文政2年(1819)に前本堂が再建され、その後大正11年に破風作りの屋根に改めるなど、補修をされながら長く使われてきた。近年になり老朽化が進んだため、平成2年11月に現在の本堂に改築建立され、今日に至っている。

扁額

「薬師堂」

金蔵院のお薬師様は天保5年(1834)に願主星野きちをはじめとする小金井村女念仏講によって金蔵院に勧請され、それに伴い薬師堂が建立された。その後老朽化が目立ったことから昭和59年に空海上人(弘法大師)千百五十年忌を記念して前薬師堂が再建され、長く御詠歌講の場などとして使用された。現在の薬師堂は三代目にあたり、平成25年12月に落慶を迎え、毎月八日には護摩修法を執り行いご供養をしている。

「開星稲荷神社」

稲荷様は五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の神であり、当本社六尺×六尺、石鳥居奥手の本社に鎮座している。「開」は開運隆盛、「星」は万物の精が天に生まれたものであり、豊楽融和を意味している。

金蔵院の坂

黄金の水(宝永四年六地蔵)(小金井市本町)


六地蔵は、人間が死後、生前の善悪によって生きめぐる地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六つの苦界(六道)で衆生の苦しみを救う六種の地蔵菩薩です。病疫や悪霊の侵入を防ぐ境の守りとして、村境、辻、寺や墓の入り口などに見られます。宝永4年(1707)建立の六地蔵は笠付きの六角柱の各面に一体づつ半肉彫りされており、それぞれ印相や持ち物に違いがあります。高さ117㎝。小金井市教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

貫井神社(小金井市貫井南町)


創立は天正18年(1590)この湧水の出る景勝の当地に、水の神である水神様を貫井弁財天と称え奉祀、氏神様として崇敬せるを明治維新の際神仏分離令により明治8年(1875)厳島神社と改称、更に貫井村字一ノ久保鎮座の貫井神社を合祀、以後村社貫井神社を称す、御本殿は今より約280年前の宝永6年(1709)改築、総﨔建築に立派な彫刻を施し文化財として重きをなすも昭和60年(1985)7月16日早朝、はからずも火災にて本殿焼失せり、里人一同恐懼、早速復興し神慮を安じ奉らんと一心に励み、昭和61年(1986)12月23日総桧材流造の広壮麗美なる御本殿を復元、併せて渡廊・玉垣・神橋をも復元竣工す、これを記念し慈に刻む。~貫井神社HPより転載~

「鳥居」

「御本殿造営記念の石碑」

「御神池」

「拝殿」

本殿」

総桧材流造の「本殿」は重厚な感じ

「東京の名湧水57選」

東京都環境局・東京の名湧水57選(No.29)にも選ばれた貫井神社の湧水。本殿の西~北側にあり「昔から枯れたことがない」と言われている。貫井の湧水は、夏は冷たく冬は「温(ぬく)い」ことが貫井の地名由来とする説が知られており、また、最近では貫井神社の湧水が豊富で枯れることがなかったことから「黄金井」(こがねい)、そしてそれが「小金井」の名になったという説が有力視されている。

野川に戻り「弁天橋」を渡って

「滄浪泉園」へ

滄浪泉園(小金井市貫井南町)


この庭園は、明治・大正期に三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任し、活躍した波多野承五郎(雅号・古溪)氏の別荘の庭園で、小金井市の歴史と共に歩んできた「はけと湧水」をたくみに生かした由緒ある緑地。「滄浪泉園」(そうろうせんえん)と言う名の由来は、大正8年、この庭に遊んだ犬養毅(雅号・木堂)元首相が友人である波多野氏のために名づけたと言われ、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵(ぞくじん)に汚れた心を洗い清める、清清(せいせい)と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という深い意味を持ち、石の門標文字は犬養毅元首相自筆によるもの。~小平市HPより抜粋転載~

「滄浪泉園」はどんなところ?

滄浪泉園は、武蔵野台地から沖積層底地へ移るところに位置しており、この傾斜地は古代多摩川が南に移って行った途中作った古い段丘の1つで、国分寺崖線と呼ばれ、崖下からは豊かな地下水が湧き出て、これを一般にハケと呼んでいる。おもにアカマツ、スギ、モミジなどが混成する森。これらの樹木によってハケの地下水も保たれ、また野鳥の好む実をつける低木類も植えられているので、野鳥や小動物にとっては好適な環境になっている。~下記案内板より抜粋転載~

武蔵野台地の国分寺崖線の地形や湧水池を利用した

"池泉回遊式庭園"

水面に映る新緑が美しい

東京都環境局・東京の名湧水57選(No.30)

「ハケ」

段丘崖下部の窪みのような部分から泉がこんこんと吐き出されている地形、このようなところを「ハケ」と呼んでい。市内にはこのような場所がいたるところにみられ、「小金井」の地名も豊富な清水が湧くところから起ったとも伝えられている。

「鼻欠け地蔵尊」

この石仏は寛文6年(1666年)今からおよそ三百十三年前庚申さまとしてまつられたもので、市内で最も古いお地蔵さま。信仰ため何度も触られたのでしょうか、目や鼻などが欠け落ち昔の人々の厚い信心がつたわってくるようです。背後の椿は樹齢百年を悠に越すとみられ、季節には深紅の花を散らせ、お地蔵さまを飾ります。

「水琴窟」

竹筒の聴音筒で水琴窟の音を聞く♬

水琴窟構造図

大沢の里・野川公園・小金井散策Ⅰ はこちら → 大沢の里・野川公園・小金井散策Ⅰ