勝海舟記念館と関連史跡・洗足池 (東京都大田区南千束)


“2019年(令和元年)9月7日に「勝海舟記念館」開館”とのニュースを見て行ってきました。館内は、1階のCG映像を含む「資料ゾーン」と2階の大型モニターやジオラマ展示のゾーンに。1階エントランス付近と2階のみ写真撮影可能。その他、勝海舟関連史跡と洗足池周辺を散策してきました。-2019.10.17-

勝海舟別邸(洗足軒)跡

勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。「池のもに  月影清き今宵しも  うき世の塵の跡だにもなし」。晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。「うゑをかば  よしや人こそ訪はずとも  秋はにしきを織りいだすらむ」明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。平成十一年三月 勝海舟没後百年を記念して 社団法人 洗足風致協会 ~下記案内板より転載~

勝海舟記念館


勝海舟は、江戸無血開城直前、洗足池の畔を経由して新政府軍の本陣がおかれた池上本門寺へ向かう途中、洗足池付近で休息をとったといわれている。そのときに、洗足池周辺の風景を気に入り、1891年(明治24年)、別荘「洗足軒」を構え、自身の埋葬の地に定めた。海舟没後、財団法人清明会が海舟の墓所や別荘の保存、海舟関係の図書の収集・閲覧、講義等を目的として「清明文庫」を昭和8年に開館、2000年(平成12年)に国登録有形文化財に登録された。この国登録有形文化財である「旧清明文庫」を活用し、海舟と大田区との縁を紹介するとともに、海舟の想いと地域の歴史を伝える全国初の「勝海舟記念館」を2019年(令和元年)9月7日に開館。~勝海舟記念館パンフレット、HPより抜粋、転載~ -2019.10.17-

正面中央部のネオゴシックスタイルの柱型4本が特徴的

入場券

勝海舟の等身大パネルがお出迎え

身長は156〜157cmと言われている

アールデコ調の造作

「寄木床」

2階に展示してある洗足池の畔にあった

勝海舟の別邸「洗足軒」の模型

勝海舟夫妻墓所


勝海舟は、明治32年(1899)に没した後、遺言により当地に葬られた。五輪の形式は海舟が生前に図案化して指示したののといわれ、「海舟」の文字だけを水輪に刻ませている。

勝海舟夫妻の墓 <大田区文化財>

勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十ニ年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。「千足村の別墅に 楓樹数株を植ゑて うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも 秋はにしきを 織りいだすらむ 染めいづる 此の山かげの 紅葉は 残す心のにしきとも見よ」(飛川歌集より) 昭和四十九年ニ月ニ日指定 大田区教育委員会  ~下記案内板より転載~

「水船」(手水石)

西郷隆盛(南洲)留魂詩碑付近


西郷隆盛(南洲)留魂詩碑


勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死を悼み、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1879)、葛飾区の浄光寺に勝海舟が私費で建立した石碑。大正2年(1913)に現在地に移設された。表面に西郷の作詩を、裏面には海舟の西郷への述懐が刻まれている。

留魂祠(りゅうこんし)


明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌に際して、勝海舟から同志達に留魂詩碑の存在が明かせられると、彼らはその傍らに小祠を建てて「留魂祠」と名付け西郷の霊を祀りました。詩碑と同じく大正2年(1913)に当地に移設されたもの。

南洲海舟両雄詠嘆之詩碑


昭和12年(1937)に数名の有志が計画し、海舟を師と仰ぐ徳富蘇峰に詩を書いてもらい建立。勝海舟と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれている。

南洲先生建碑記


「留魂詩碑」の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建立。

勝海舟追慕碑


勝海舟の門下生の富田鐵之介が大正2年(1913)に記したもので、「留魂詩碑」の建立から移設までの経緯、有志により「留魂祠」が建てられたことが記されている。

洗足池とその周辺


「洗足池」は、武蔵野台地南端の湧水をせきとめた約4万平方メートルもの広大な湧水池。仏僧の日蓮上人が池上寺へ向かう途中で、ここで足を洗ったという言い伝えにちなんで名づけられた。洗足池公園内には三連太鼓橋の「池月橋」、「千束八幡神社」、「名馬池月像」、ソメイヨシノが植えられたサクラ山、人工島の弁天島と「洗足弁財天」、水生植物園などがあり、水鳥や自然の宝庫。また東側には、晩年当地に別荘(「千束軒」)を構えた「勝海舟夫妻の墓」、西郷の訃報に接して勝が立てた「西郷隆盛留魂詩碑」、彼らの偉業を称えた「徳富蘇峰の詩碑」などが建っている。

洗足池公園 <東京都指定名勝>

区立洗足池公園は、清水窪湧水などを主な水源とする淡水池の佳景で、古くから良く知られています。洗足の名は、日蓮聖人が手足を洗ったと云う伝承に因むと云われています。江戸時代には数多くの文芸作品や絵画作品に取り上げられ、浮世絵師・歌川広重が描いた「名所江戸百景・千束の池袈裟懸松」は殊に有名です。明治23年(1890)頃には、晩年の勝海舟が東岸に別荘「洗足軒」を築き、後に夫妻の墓地も造られました。公園近くの国登録有形文化財「旧清明文庫」は、昭和初期に海舟の遺蹟の保存などを目的に建てられ、現在は区立勝海舟記念館として活用されています。昭和5年(1930)に都市計画法に基づく風致地区に指定されると、同8年(1933)には地元有志が社団法人洗足風致協会(現・公益社団法人洗足風致協会)を設立し、現在まで積極的に環境保全活動を続けています。池の周辺には【平家物語】に登場する源頼朝の愛馬・池月の伝承がある千束八幡神社の他、国登録有形文化財の妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)、厳島神社のある弁天島、三連太鼓の形状が印象的な池月橋、樹林帯の桜山・松山があり、23区内でも有数の散策地として親しまれています。 東京都教育委員会 ~下記案内板より転載~

「水生植物園」

「弁天島」

洗足池弁財天


池の守護神として古くから祭られていた「弁財天」。1934年に現在の弁天島が造られ、社殿も造営された。

千束八幡神社(洗足池八幡宮)(東京都大田区南千束)


御祭神:品陀和気之命(応神天皇)。860(貞観2)年、宇佐八幡宮を勧請し、旧千束郷の総鎮守として創建された東京都大田区南千束に鎮座する神社。旧社格は村社で、千束郷(洗足池一帯)の総鎮守。洗足池の西のほとりに鎮座し、「城南の名勝」とも称される景勝地。源頼朝旗揚げの地との伝承があり、「旗挙げ八幡」とも称された。『平家物語』に登場する名馬・池月伝説の由来も伝わっている。正式名称は「千束八幡神社」だが「洗足池八幡宮」と呼ばれる事も多く、当社もそう称する事が多い。

「拝殿」

「神明宮」

「稲荷社」

名馬池月之像


名馬池月の由来(下の解説板から)

治承4年(1180)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを池月と命名し頼朝の乗馬とした。寿永3年(1184)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。

御松庵 妙福寺 (東京都大田区南千束)


千束池の池畔にある「御松庵に」、浅草永住町(台東区元浅草)にあった「妙福寺」が移ってきて合併した寺。
「御松庵」は、日蓮に関する伝説がもとになって成立した草庵で、日蓮が弘安5年(1282)に身延山(山梨県)から常陸国の温泉に向う途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館に立寄るため、千束の池にさしかかったとき、池のほとりで休息をし、かたわらの老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗った。このとき水中から七面天女が出現。身延七面山頂の湖水にいて、日蓮が身延在山中守護していたが、日蓮が旅立ちをしたのでこれについて道中守護をしてきた旨を告げ、日蓮の読経を受けて消え失せた。その後、このことを記念して、土地の人達が、堂宇を立てて七面天女を安置したのが、「御松庵」のはじまりであるという。法衣をかけた「袈裟掛けの松」を護る「護松堂」が建てられ、この堂名から「御松庵」と呼ばれるようになった。また日蓮が足を洗ったので、この池を「洗足池」と呼ぶようになったといわれている。

「本堂」

「袈裟掛けの松」