京都 嵯峨野・嵐山


 京都市の西部に位置する嵯峨嵐山。春は桜、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪と、四季折々に風情ある景色を楽しめる風光明媚な景勝地。平安時代は貴族の別荘地として栄え、嵯峨嵐山に因んだ和歌も数多く残されており、有名な「小倉百人一首」は、ここ嵯峨嵐山で編纂されたと言い伝えが残されている。「天龍寺」「竹林の小径」「大河内山荘庭園」「二尊院」「祇王寺」「常寂光寺」「野宮神社」と散策してきました。-2016.11.06-

上記MAP出典: imahachi.com 

天龍寺 (京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)〈世界文化遺産〉


その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが「天龍寺」で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。造営費の捻出に成功した「天龍寺」は、康永4年(1345)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。~天龍寺HPより転載~

「曹源池庭園(そうげんちていえん)」

 <史跡・特別名勝指定>

約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初の史跡・特別名勝指定。中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。庭園全体像は寛政11年(1799)に刊行された秋里離島による「都林泉名勝図会」に描かれた姿をよく残している。方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝とは中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。~天龍寺HPより転載~

絵葉書

法堂「平成の雲龍画」

法堂(はっとう)天井に平成9年(1997)天龍寺開山夢窓国師650年遠諱記念事業として日本画家加山又造画伯(1927~2004)により「雲龍図」が描かれた。天井(縦10.6m 横12.6m)に厚さ3cmの檜板159枚を張り合わせ全面に漆を塗り、さらに白土を塗った上に直径9mの二重円相内に直接墨色で躍動する見事な八方睨みの龍が描かれている。移築当時は明治期に活躍された鈴木松年画伯の雲龍図が描かれていたが損傷が激しく、現在ではその一部が保存されており、毎年2月に大方丈にて一般公開している。~天龍寺HPより転載~

竹林の小径(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)


「野宮神社」から「天龍寺」北門を通り「大河内山荘庭園」へ抜ける約400mの道。手入れされた竹林が道の両脇に続く、京都を代表する観光名所。平安時代には貴族の別荘地だったと言われている。

大河内山荘庭園 (京都府京都市右京区) <国指定文化財>


昭和初期の映画俳優大河内伝次郎(1898~1962)が百人一首 で有名なここ小倉山からの雄大な風光に魅せられ、30年に渡り丹精こめて、こつこつと造りあげた優美な庭園。桜や楓が多く植栽された園内からは、嵐山に保津川の清流 、比叡山や京の町並みなども眺められる。 近年、国の文化財に指定された。 ~各所説明は文化遺産オンラインより抜粋転載~

「中門」

<登録有形文化財(建造物)>

庭園の内外郭を区切る位置に建つ門。親柱、控柱、冠木で軸部を構成し、その上に大きく弓形に曲げた垂木を配して迫持状の檜皮葺屋根を載せる。間口約1.7mの小規模な門だが、丸太や名栗の部材を多用した数寄屋風の意匠で奇巧性に富んだ特異な形式になる。

「大乗閣」

<登録有形文化財(建造物)>

大河内傳次郎が営んだ別荘の中心施設。数寄屋風の書院をはじめとして、泉殿のように突出した寝殿、如庵写しの小間の茶室、民家風の勝手、土間を一体化させた斬新な建物。各様式の特性に応じ屋根形式や意匠に工夫を凝らした数寄屋師笛吹嘉一郎の代表作になる。

絵葉書

「持仏堂」

<登録有形文化財(建造物)>

苑内の南西部に東面して建つ。正面1間、側面2間、入母屋造、瓦葺、妻入で、正側面3方に刎高欄付切目縁を回す。円柱を頭貫、内法長押で固め、台輪上に三斗組、中備蟇股を置く。小規模だが軒は吹寄垂木を1支おきに疎らに配すなど全体に技巧的な造り。

「滴水庵」

<登録有形文化財(建造物)>

大乗閣の南方庭園内にある茶屋。平屋建で桁行5間、梁間2間、入母屋造、藁葺の主体部の南面西半に切妻造、土屁付の突出部をもつ。二室の広間の茶室と土間のある水屋は、丸太や竹を多用した軽快な数寄屋風の造りになり、苑内の景観形成に欠かせない建物。

「月香亭」からの眺め

二尊院 (京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町)


百人一首にも詠われた小倉山のふもとに広がる。紅葉の名所と名高く、千二百年の時を超えて美しい景観に包まれてきた。二尊院はその名の通り、「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を祀る寺院であり、正式には「小倉山二尊教院華臺寺」という。開創したのは承和年間(834〜847)のこと。嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が建立。約五万坪の境内には、「本堂」、「勅使門(唐門)」、「総門」、「八社宮」、「湛空廟」、「鐘楼」が配されており、重要文化財の本尊二尊をはじめ、多くの寺宝が京都市指定文化財として残されている。~二尊院HPより転載~

「総門」

華やかな文様が迎える正門

二尊院を訪れた際に、最初に出会うのが「総門」。慶長十八年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進された。室町時代の建築として京都市指定文化財となっている。総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦など多彩。平成二十六年(2014)には瓦葺き工事により江戸時代の柄のまま復元されている。~二尊院HPより抜粋転載~

上記写真:二尊院HPより転載

「紅葉の馬場」

総門を抜けた先に広がる、真っすぐに伸びた参道は「紅葉の名所」として親しまれている。約百メートルの間にモミジとサクラの木が交互に植えられており、秋は赤や黄の色鮮やかな紅葉のトンネルを魅せてくれる。小倉山を背景に、春は華やかな桜色に染まり、夏は色濃く重なる緑に覆われ、冬は霜に輝く木々が連なり、四季それぞれの風景を楽しめる。帰り道、石段の上から眺める参道も見物です。~二尊院HPより抜粋転載~

「勅使門」

本堂へと続く門は、天皇の意志を伝えるために派遣される使いの「勅使」が出入りする際に使われていた「勅使門」。弓を横にしたような形で中央が高い「唐破風形」の屋根をしている。かつては、勅使が訪れた時のみ開門していたため、格式高い特別な門。今日では参拝した誰もが通ることができますが、歴史的背景を知ると通るたびに厳かな気持ちにさせられます。~二尊院HPより抜粋転載~

「本堂」

<京都市指定文化財>

二尊を安置してある「本堂」。六間取り方丈形式の間口の広い建物は京都市指定文化財。室町時代の応仁の乱(1467〜77)の兵火で諸堂が全焼するが、永正十八年(1521)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建。本堂に掲げられている後奈良天皇の自筆による「二尊院」は、この再建時に与えられたもの。平成二十八年(2016)には、約350年振りとなる平成の大改修が完了。由緒ある寺院にふさわしい壮麗さを取り戻している。~二尊院HPより抜粋転載~

上記写真:二尊院HPより転載

「遺迎二尊像」

<重要文化財>

寺名のもととなっている二尊は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遺の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遺迎二尊。この思想は、中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白道喩」というたとえによるもので、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれた。当院の「遺迎二尊像」は鎌倉時代中頃に、春日仏師によって作られたと言われている。本堂の中央に安置されており、右に「釈迦如来像」、左に「阿弥陀如来像」が立つ。左右相称で金泥塗り、玉眼入りの像が境内を見守るように並んでいる。

上記写真:二尊院HPより転載

しあわせの鐘「鐘楼」

梵鐘(釣り鐘)をつるす堂「鐘楼」は、慶長年間(1596〜1615)に建立。梵鐘は慶長九年(1604)に鋳造し、平成四年(1992)に、開基嵯峨天皇千二百年御遠忌法要記念として再鋳。「しあわせの鐘」と名付け、「自分が生かされているしあわせを祈願」「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」と、鐘を三つ撞いてそれぞれに祈願していただいています。~二尊院HPより抜粋転載~

「八社宮」

<京都市指定文化財>

紅葉の馬場を抜け、西へ行くと本堂ですが、東へ進むと「八社宮」がある。境内の東北に位置し、表鬼門としてつくられた社。その名の通り、伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の八社を祀ってい

る。室町時代末期の建築として京都市指定文化財に指定。~二尊院HPより抜粋転載~

「湛空廟」

<京都市指定文化財>

本堂としあわせの鐘の間に、木々に囲われた石段があり、真っすぐに上がった先に待ち受けるのが「湛空廟」。二尊院で教えを広めた僧、湛空上人の碑を収めている。建長五年(1253)に中国の石工によって彫られた碑と思われ、碑堂は室町時代末期の

建築として京都市指定文化財。~二尊院HPより抜粋転載~

祇王寺 (京都府京都市右京区)


祇王寺は竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵で、『平家物語』にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られている。昔の「往生院」の境内にあり、「往生院」は法然上人の門弟良鎮によって創建されたと伝わっており、山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、ささやかな尼寺として残り、後に「祇王寺」と呼ばれるようになった。

「苔庭」

「草庵」

ひっそりと佇むかやぶき屋根の「草庵」。中には祇王、清盛公ら五人の木造が安置されている仏間があり、吉野窓から外の景色を眺めることができる。

「吉野窓」

草庵の中の控えの間にある大きな窓。窓の格子と外の竹やぶが交差し、影が色づいてみることから「虹の窓」とも呼ばれている。

写真出典:祇王寺HPより転載

「水琴窟」

常寂光寺 (京都市右京区嵯峨小倉山小倉町)


慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創。「本堂」は、慶長年間に小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営する。 「仁王門」は、元和二年(1616)に大本山本圀寺客殿の「南門」(貞和年間の建立)を移築、「仁王像」は、運慶作と伝えられる。常寂光寺HPより

「仁王門」

もと本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものを、元和二年(1616)に当山に移築され、「仁王門」とした。 境内建築物の中で最も時代の古い建物である。茅葺の屋根がめずらしい。 仁王門像は、身の丈七尺、運慶の作と伝えられる。仁王門像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願されている。~常寂光寺HPより転載~

「本堂」

本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して「本堂」としたもの。江戸期の文献、資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。現在の平瓦葺きの屋根は、昭和七年の大修理の時に改修されました。建立の年代は、慶長年間。 ~常寂光寺HPより転載~

「妙見堂」

妙見菩薩は、北極星または北斗を象徴した菩薩様であることから、妙見尊星王、北辰妙見菩薩などといわれている。 ~常寂光寺HPより転載~

 上記写真:常寂光寺HPより転載

「妙見宮」

「鐘楼」

鐘楼は、寛永十八年 (1642) 当山第四世、光照院日選上人の建立。梵鐘は第二次世界大戦中徴資に遭い、現在の梵鐘は、昭和四十八年に青木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたもの。毎日、正午と夕方五時に所定の数を突いています~常寂光寺HPより転載~

「多宝塔」

寺伝に、文禄五 (1596) 年日禛上人が、当寺に隠棲して堂舎を建立し、さらに日韶上人が小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築して本堂とし、元和二 (1616) 年には本圀寺客殿南門を移して「仁王門」としたことが見えるから、慶長から元和にかけての頃が、当時の創建期であったらしい。~常寂光寺HPより転載~

境内の後方、やや小高い地点に建つ「多宝塔」は、方三間、重層、宝形 (ほうぎょう) 造、檜皮葺、総高約12m余で、均整のとれた美しい姿を示している。


野宮神社 (京都府京都市右京区)


野宮は、その昔天皇の代理伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれる)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところ。嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地。その様子は源氏物語の「賢木(さかき)の巻」に美しく描写されている。野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされている。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶。その後は神社として存続し、勅祭が執行されていたが、時代の混乱の中で衰退していった。そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ、皇室からの御崇敬はまことに篤いものがありました。黒木鳥居と小柴垣は平安の風情を現在に伝え、源氏物語、謡曲野宮でも有名な当社は、嵯峨野巡りの起点として多くの方が訪れる。えんむすびの神様、子宝安産の神様として全国から崇敬を集めている。~野宮神社HPより抜粋転載~ -2016.11.06-

「黒木(くらき)の鳥居」

樹皮をはがす前の木材をそのまま使って建てた珍しいもので、日本最古の鳥居といわれている。この「黒木の鳥居」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)に奉仕する斎王が、悪霊などにとりつかれないように建てられたもので、斎王を守ったと伝えられている。