東京下町八福神参り


「東京下町八福神参り」を耳にして「山手七福神」(1月3日)「東海七福神」(1月5日)に続き参拝してきました。併せて同行のお友達ご推奨の三社(「今戸神社」近くの「待乳山聖天」、言問橋を渡って「三囲神社」、「牛嶋神社」)を巡ってきました。→「東京下町三社参り」 2023年は福がいっぱい⁉ -2023.01.06- 

「東京下町八福神参り」

八つのお社をお参りして八つのお恵みを受けることです。 ご家族皆様方の開運受福を祈り、それぞれの御神徳を頂くことにより末広がりの人生の平安が授けられます。又、八つのお社をお参りすると共に下町という人情味ゆたかな土地柄、名所旧跡をおたずねして頂きたいと存じます。八社福参りは、お近くのお社よりお参りされてよろしく、正月一日より七草まで年の始めにご家族の開運・無事息災を祈り、その期間、八社福守が授与され、お守を受けられることにより「八方除け、八方開き」にも通じます。~東京下町八福神参りHPより転載~

下谷神社 -家内安全-(台東区東上野)


「下谷神社」は奈良時代に創建され、都内で最も古い「お稲荷様」。祭神名、大年神 (オオトシノカミ) は天照皇大神(アマテラスオオミカミ) の御弟、素戔雄尊 (スサノオノミコト) の御子で五穀を主宰し、厚く産業を守護し商売繁盛と家内安全の御利益がある神様。天平2年(730)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永4年(1627)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝8年(1680)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。「下谷神社」と改称したのは明治五年(1872)。関東大震災の後、昭和3年(1928)の区画整理により、東南に50mほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成12年、台東区有形文化財)。尚、当神社は寛政10年(1798)に初めて寄席が行われた由縁の地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑が建立されている。~下谷神社HP・下記案内板より抜粋転載~

一の鳥居(浅草通り沿い)

拝殿

御水舎

毎月朔日(1日)に合わせて花手水

隆栄稲荷神社

家内安全と商売繁盛

御祭神は宇賀魂命(うかのみたまのかみ)

神狐像が置かれた狐塚

神楽殿

寄席発祥の地

明治5年以前は「下谷稲荷社」が正式名称でした。江戸時代、寛政10年(1798)6月に初代山生亭花楽が下谷稲荷社(現下谷神社)の境内で五日間の寄席興行を行いました。これが江戸における最初の寄席興行といわれている。落語自体はもっと前から存在していたが、それ以前の落語は、身分の高い方の前で一対一で話をしており、寄席の定義というのは一般の人を対象に、木戸銭をとって落語を聞かせることだそうです。

小野照埼神社 -学問・芸能-(台東区下谷)


東京の下町「入谷」に鎮座する小野照崎神社。御祭神は、百人一首にも撰された平安初期有数の歌人であり、漢詩は「日本の白楽天」と呼ばれ、その文才は天下無双、「その才は神に至る」と評される程の絵の大廈でもあり、法律に明るい当代きっての学者で、参議という国の要職も務めた 小野篁公(おの たかむら)。852年(仁寿2年)、篁公が御東下の際に住まわれた上野照崎の地に創建され、寛永寺の建立とともに現在の地に遷された。江戸後期には、 学問の神様である菅原道真公(すがわら みちざね)も回向院より御配神として当社に遷され、境内にある末社を含めると15柱もの神様がお祀りされている。

手水舎

本殿

本殿は江戸末期、幕末の慶応2年(1866)の建造。江戸では珍しく関東大震災、東京大空襲という2度の大火を免れ、軒下には鳳凰や龍、獅子、象などの見事な彫刻も残されている。

写真:小野照埼神社HPより転載


下谷坂本の富士塚

この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の「富士山建設之誌碑」によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。 台東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

まゆだまみくじ

日本では古来より、神様への神聖な捧げ物として、絹がお供えされている。当社では、それぞれの願いを育むという意味を込め、絹になる前の繭を用いた「まゆ玉みくじ」や「幸せみくじ」。

鷲神社 -商売繁盛-(台東区千束)


鷲神社(おおとりじんじゃ)は、江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神社と号し、開運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をお祀りしている。鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されている。その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」すなわち「酉の市」の起源・発祥。その後、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われた。江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦渦にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されている。天日鷲命は「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司る神様として厚く信仰されている。~下記案内板より抜粋転載~

鷲神社は、浅草七福神の一つに数えられていて、寿老人が祀られている。

浅草酉乃市御本社

左手には大熊手、叉木にはお正月の提灯が


「明神鳥居」と七福神が描かれた巨大な絵馬

茅の輪(ちのわ)

茅の輪をくぐる事により、

疫病退散・無病息災になると云われている

社殿

上記写真:神社メモHPより転載

「なでおかめ」の云われ

おでこをなでれば賢くなり 目をなでれば先見の明が効き 鼻をなでれば金運がつく 向かって右の頬をなでれば恋愛成就

左の頬をなでれば健康に 口をなでれば災いを防ぎ 顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まる と云われる

※ 2018年11月13日に神社が賑わう「酉の市」に。 浅草 鷲神社 酉の市(Nov.2018)へ。


山谷堀公園

東京都台東区にある区立公園。王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしている。江戸時代には吉原に通う猪牙船で賑わったと伝わります。隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園で隠れた桜の名所となっている。

スカイツリーがよく見えます♬

今戸神社 -縁結び-(台東区今戸)


当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の岩清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡八幡と浅草今津村(現今戸)に勧請。應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生された。従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されている。伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されている。昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称された。今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となった。~下記案内板より抜粋転載~また、浅草名所七福神の福禄寿、東京下町八社福参りの一社を担っている。近年は縁結びの神社として特に女性から人気を博しており、諸説あるものの「招き猫発祥の地」「沖田総司終焉の地」としても知られる。

鳥居

茅の輪(ちのわ)

拝殿

両脇に大きな"招き猫"

真中に"福禄寿"

招き猫発祥の地

「今戸神社」は浅草寺や豪徳寺などと並び、招き猫発祥の地のひとつといわれている。それは江戸時代末期、愛猫を手放した老婆の夢枕に現れた愛猫の「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」というお告げに従い、猫の人形を今戸焼にして浅草寺境内で売ったところ、たちまち評判になり福徳を得たことが由来とされている。

"石なで猫"

拝殿左手にある招き猫は縁結びのご縁があるといわれており、祀られている伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)にちなんだ「ナギちゃん(左)」と「ナミちゃん(右)」という名前。

スマホの待ち受け画面にしておくと

「願い事が叶う」といわれている

江戸時代、文政五年(1822)に奉納された金網の狛犬と円形の絵馬。円形の絵馬は縁と円の語呂を掛け合わせたとのこと。

手水舎

「今戸焼発祥の地」「沖田総司終焉之地」の碑

今戸焼発祥の地

今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人 形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。

沖田総司終焉之地

沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている

碑字は橘右近書


第六天榊神社 -健康長寿-(台東区蔵前)


景行天皇の御宇四十年(110)日本武尊が、勅命により東国の鎮定に下向の折この地に国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自ら奉持した白銅の宝鏡を納め国歌鎮護の神宮とした。古来より「第六天神宮」と称され公武衆庶の崇敬を受けてきた。明治六年「榊神社」と改称した。

大鳥居

手水舎

拝殿

絵馬は榊のデザイン

神楽殿

七福稲荷神社

甘酒横丁


甘酒横丁商店街は人形町商店街通りから明治座のある清洲橋通りまでの並木路両側の商店で構成されている。甘酒横丁の街の由来は、明治の昔、今の甘酒横丁入口付近に「尾張屋」という甘酒屋さんがあって、その小路を「甘酒屋横丁」と呼んでいたのがこの呼び名の起源のようです。そのころから、人形町にあった寄席や明治座の芝居帰りの見物客で賑わっていたそうです。関東大震災のあと、道路が広げられましたが、今でもこの道は「甘酒横丁」と呼ばれ親しまれている。

「勧進帳の弁慶像」(浜町緑道)


弁慶像について

今を遡ること350年前、現在の人形町あたりに葺屋町(ふきやちょう)と堺町という街があった。当時この街では、江戸三座といわれていら芝居小屋のうちの市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。また、浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数件あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。ここで使われた人形の製作と、修理に当たった人形師達は、この周辺に住み人形細工と人形の販売をも業としていた。以上が人形町の名のいわれとされており、ここ人形町界隈は、今日隆盛をきわめる江戸歌舞伎発祥の地と呼んでも差し仕えないといえる。この度、緑道の改修に当たって、入り口の広場に歌舞伎十八番の内でも人気のある勧進帳(かんじんちょう)の武蔵坊弁慶を設置するとともに、その背面に関所風の冠水門を設けて江戸情緒をかもしだし、往時をしのばんとするものである。中央区土木部公園緑地課 ~下記案内板より転載~

水天宮 -安産子授け-(中央区日本橋蛎殻町)


文政元年(1818年)久留米藩の時の殿様有馬頼徳(よりのり)公が、領地久留米水天宮の御分社を三田赤羽の有馬藩邸に建てたのが創め。明治元年有馬邸が青山に移ると共に青山へ、さらに明治五年現在地に移った。平成28年(2016)、江戸鎮座200年事業で新社殿が完成。安産子授けの神として江戸時代の頃より信仰を集める。日本橋七福神の弁財天、東京下町八福神参りの一社。

最寄駅の水天宮前駅と直結する形で鎮座

境内入口

本殿

大神様の御神威の益々の発揚を願い、新たな光へと導かれる白木を基調とした神社建築様式を取り入れている。また代々受け継がれている伝統文化の錺金具や彫刻等も施しており、免震構造など最新技術を用い、古きよきものと新しきものを取り入れた、時代に即した社殿。

上記写真:水天宮HPより転載

寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)

江戸の頃、有馬家上屋敷内には市杵島姫(いちきしまひめ)神も祀られていた。代々の当主は辨財天を篤く信仰し、第九代藩主有馬頼徳公が寳生流能楽の技を加賀藩の前田斉広(なりなが)公と競う際、稽古に励み辨財天に願をかけ、勝利をおさめたという。学業・芸能、又「寳生」の名のごとく財福のご神徳が。※毎月5日と巳の日には扉が開き、ご神像が拝観できる。


硝子ごしでなかなか撮るのが難しい😢

頭に鳥居をいただく

子宝いぬ

愛らしい子犬を見つめる母犬からは情愛が伝わってきます。周囲を取り巻く十二支のうち自分の干支を撫でると安産、子授け、無事成長など様々なご利益があるといわれている。

境内社

右奥から高尾神社・火風神社・秋葉神社

小網神社 -強運厄除-(中央区日本橋小網)


文正元年(1466年)悪疫鎮静の神として鎮座。明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、「小網稲荷神社」として明治6年7月5日、村社に指定された。現社殿・神楽殿は、大正期の明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門により、昭和4年に造営された。その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の戦前の木造神社建築となっている。特に、向拝に施された「昇り龍」と「降り龍」の彫刻は見事なもので、「強運厄除の龍」として拝されている。戦後の宗教法人化に伴い、名称は「小網神社」となった。社殿・神楽 殿などは現在、中央区の文化財に登録されている。日本橋七福神の福禄寿・弁財天としても崇敬を集めている他、東京下町八社参りの一社。

訪れてみたら、参拝に並ぶすごい人の列!! 調べてみると、1月6日は「最強開運日」だそうです。

神社のブログでは"参拝まで2時間近くかかっております。また、御守・神札・御朱印等を授与しております授与所の別の列もできており、ご対応まで30分ほどを要しております。銭洗いのさらに別の列にも20分ほどの列がございます"とのこと。残念ですが、参拝は断念しました😢 再訪してゆっくり参拝したいと思います。

住吉神社 -交通安全-(中央区佃)


神功皇后三韓征伐の際、住吉三神の御守護により無事達成され、その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)にて、住吉三神を遥拝なさった。これが大阪佃の住吉の社(現 田蓑神社)の起こり。その後、天正年間より大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の漁業の傍ら田も作れとの命により、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すため神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めることとなる。その後、家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保3年(1646)6月29日 住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀した。これが佃住吉神社の起源。~住吉神社HPより抜粋転載~

※ 2022年5月2日に参拝しました。境内詳細は、中央区散策(明石町・佃島)(May.2022)へ。

併せて、「今戸神社」近くの「待乳山聖天」、言問橋を渡って「三囲神社」、「牛嶋神社」を参拝。

  → 東京下町三社参り へ。