杉並区史跡散策Ⅱ


荻窪駅からスタート。「角川庭園・幻戯山房」、紅葉の「大田黒公園」、いちょうが色づく善福寺川沿いを歩きながら「尾崎熊野神社」「宝昌寺」、大イチョウで有名な「大宮八幡宮」と杉並区の史跡を散策。ゴールは「杉並区立郷土博物館」へ、"大正天皇の后 貞明皇后展"の観賞してきました。 -2023.12.03-

善福寺川と五日市街道が交差する

「尾崎橋」付近の彫刻「川の風」



「和田堀池」

昭和 30 年の中頃に河川改修に伴い

人工的に作られた池。

「八幡橋」

善福寺川に架かる「大宮八幡」境内に続く橋

大宮遺跡(杉並区大宮)


大宮遺跡<東京都指定遺跡>

昭和44年(1969)7月から8月にかけて杉並区教育委員会が実施した発掘調査によって、弥生時代終末期の方形周溝墓3基が近接して発見された。西側から第一号基、第三号基、第二号基と名付けられた。第一号基の主体部から軟玉製の勾玉1個とガラス小玉12個、周溝中から底部穿孔の弥生式土器10個体、第三号基の周溝中からは弥生式土器2個体がそれぞれ出土。本遺跡で発掘調査された方形周溝墓群は、都区内で初めての発見の事例であり、方形周溝墓の主体部から豊富な玉類が出土したこと、主体部上に封土が認められてことは、同時代の墓制を研究する上でも極めて学術的価値が高いものとして注目されている。 東京都教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

大宮八幡宮(杉並区大宮)


第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となった。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣された。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てた。これが当宮の創建の縁起である。鎮座地の大宮という地名は、当宮の神域が広大であったことから名づけられた。現在の境内も15000坪になる。 ~大宮八幡宮HPより抜粋転載~

上記マップ:大宮八幡宮HPより転載

「赤門」(北神門)

赤門(北神門)は元々正門で御鎮座九百年に現在の位置に移築された。今回、改修工事にあたり朱を塗り直す際、釘で書いたような209年前の「寛政七卯年 五月三日 中山□□ 中根□□」という書き込みが扉板より発見され、区の文化委員会の鑑定で江戸中期以前のものと認められた。~大宮八幡宮HPより抜粋転載~

「力石」

力石は、江戸時代の頃より、氏子や近村の若者達が当宮に集い、力競べの神事をする為に奉納されるもので「担石」又は「磐持石」とも呼ばれている。この力石は明治・大正時代に奉納されたもので、現在重さ27貫(101kg)から最大50貫(187kg)までの力石14個がある。杉並区有形民俗文化財 ~下記案内板より抜粋転載~

「一之鳥居」から入りなおします。

「大宮八幡宮]

【御祭神】:応神天皇(品陀和氣命 第15代の天皇)、仲哀天皇(帯中津日子命 応神天皇の父君)、神功天皇(息長帯比賣命 応神天皇の母君)

御由緒と御神徳

大宮遺跡の存在でも明らかなようにこの大宮台地は古代より神霊の坐す聖域でありました。社伝によれば第70代後冷泉天皇の時、天喜年中(1053~1057)鎮守府将軍源頼義公が奥州兵乱平定の途次、この地で長男の八幡八郎義家等と倶に白雲八ツ幡の瑞祥を見て戦勝を祈願され、平定後の康平6年(1063)源氏の祖神である京都・石清水八幡宮の八幡大神を勧請、当宮が創建されました。以来多くの人々の崇敬が篤く神域も殊の外宏大でありましたので武蔵国の三大宮の一つ、「多摩の大宮」と呼ばれていました。源氏一位門の徳川家康公も江戸開府にあたり当宮にも参詣、以降歴代の将軍より崇敬され朱印30石を賜りました。

御祭神親子三神の御神威により子育(安産)守護、家庭円満、厄難除け、諸願成就の神として信仰が篤く、近年は、神々の記憶とわが国の歴史へ誘う、東京の重心「東京のへそ」・「子育厄除八幡さま」と讃えられています。なお大宮、方南、和田、松ノ木の各氏子地域の氏神様であります。~下記案内板より抜粋転載~

「手水舎」

「神門」

「夫婦(めおと)銀杏」

神門の両袖に梢高く茂り合っているのが夫婦銀杏。秋には色づき、七五三詣に賑わう境内に彩りをそえる。 


男銀杏の高さは約26m

「社殿」

総檜造りの社殿。現在の御社殿は、御鎮座900年を記念の御造営で、昭和40年に竣功した。

「拝殿」

「本殿」

「神楽殿」

「大宮天満宮」

大宮天満宮は菅原道真公をお祀りし受験合格・学業成就の神として信仰が篤く、1月25日は初天神、特に7月24・25日の納涼天神祭には凡そ300基の書画行灯が点灯され「時間をはずした日の祭事」として和太鼓の奉納演奏もあり、近年多くの参拝者で賑わい夏の風物詩になっている。~下記案内板より抜粋転載~

「大宮稲荷神社」・「三宝荒神社」

「大宮稲荷神社」は衣食住の神として信仰され、特に当宮と姉妹友好神社の宮城県・竹駒神社が合祀されている。稲荷大神が京都・伏見の峰に天下りなさった初午(2月の初めの午の日)、当宮でも大宮稲荷神社で初午祭が行われる。大宮八幡宮御鎮座940年記念事業で再建された稲荷鳥居6基の朱が映えるなか、社殿前両側には、崇敬者より奉納された朱幟が立ち並び、毎年2月の初めの午の日、午後1時より斎行される。また、「大宮三宝荒神社」は竈の神、私どもの生活守護の神として崇敬も篤く、歳末には「大宮三宝荒神」様の神札を多くの氏子・崇敬者の方々にお受け頂いている。~大宮八幡宮HPより抜粋転載~

「若宮八幡神社・白幡宮・御嶽榛名神社」

境内末社として「武州御嶽神社」「上州榛名神社」のご分霊を戴き、「御嶽・榛名神社」としてお祀りしている。江戸時代より農業・養蚕の神として講中をつくり信仰されてきた。現在でも、5月16日に御嶽・榛名講大松支部の講員が参列し、例祭を斎行致している。「若宮八幡神社」は八幡大神(応神天皇)の御子神の仁徳天皇がお祀りされているが、若宮は別宮(わけみや)でもあり、八幡大神の荒御魂をお祀りしているともいわれている。また「白幡宮」は当宮を創建された源頼義公とその子の八幡太郎源義家公のご神霊がお祀りされており、若宮八幡・白幡宮はとりわけ御本社とゆかりの深い御祭神をお祀りするお社。秋には大宮八幡祭りに合わせ「若宮八幡神社」・「白幡宮」の例祭を斎行している。~大宮八幡宮HPより抜粋転載~

「共生(ともいき)の木」

榧の木に犬櫻が寄生しています

古代より武蔵野の社叢(都指定 天然記念物)の中で、異なる2つの木が1本の幹で結ばれ、扶け合い生きづいている姿は、将に共生(国際協調、宗教協力、相互扶助、夫婦和合等)を示唆しているご神木です。~下記案内板より転載~

「振式殿」

振武殿という弓道場

「多摩清水乃社」(水上様)

例祭:(多摩清水祭)8月1日(水の日) 

延命長寿・厄除開運の泉

御神水:水は生きる上で最も大切なもの、常に敬神と感謝の念をもって御神水をお受けになり、ご神徳を戴かれますようお祈り致します。~下記案内板より抜粋転載~

「御神水」

「広き野に霊の清水のあるところ」(青畝)

当八幡宮は「多摩乃大宮」と称され、その武蔵野の相望して上記の句がつくられ、入口の右側に句碑がある。かつては真清水が渾々と湧き出ていたが、今では周辺の宅地化により水脈が細り汲み上げている。~下記案内板より抜粋転載~

杉並区立郷土博物館(杉並区大宮)


1989年(平成元年)に、 都立和田堀公園の中に開館。杉並に関する歴史と郷土資料の収集・保存、調査・研究と展示・公開を行っている。館内は、主に一階の常設展示室と特別展示室、二階の情報普及コーナー、視聴覚室で構成されている。このほか、敷地内に長屋門と古民家がある。

「長屋門」(旧井口家住宅長屋門)

もとは宮前5丁目、井口桂策家の表門で、昭和49年に杉並区へ寄贈された。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804年~1829年)頃と推定されている。中央を通路、右手を土間の納屋とし、左手の板床の蔵屋には年貢米を収納。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を務めた井口家の格式の高さがうかがえる。杉並区指定有形文化財(建造物)。~杉並区HPより抜粋転載~

特別展「大正天皇の后 貞明皇后展」

大正天皇の后である貞明皇后(1884~1951)は公爵九條道孝の四女として生まれ、生後7日目から明治21年(1888)11月までの約5年間を東京府多摩郡高円寺村(現・杉並区高円寺北)の大河原金蔵・てい夫妻のもとで、里子として育てられた。明治33年(1900)の御成婚後は、宮中で初めて一夫一婦制を確立し迪宮裕仁親王(昭和天皇)、淳宮雍仁親王(秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)の四人の皇子をもうけた。また、蚕糸事業の奨励、灯台守への支援などの社会事業にも尽力した。本展では、貞明皇后と杉並の関わりに焦点を当てるとともに、大正天皇病気平癒のための祈祷が行われた大乗寺から当館に寄贈された貞明皇后ゆかりの品などを展示する。~下記パンフレットより抜粋転載~


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