深谷 渋沢栄一生誕の地散策(埼玉県深谷市)


2021年2月から放映されているNHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公に、2024年に刷新される一万円札の肖像画にも選ばれる渋沢栄一の生誕の地"深谷"を散策。「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立・育成に関わり、また、約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残した。 -2021.10.15-

深谷駅


平成8年(1996)に竣工。渋沢栄一が設立・運営に携わった日本煉瓦製造株式会社(深谷市)で製造された煉瓦が東京駅の丸ノ内本屋に使われていることを受け、丸ノ内本屋を模して造られた。

散策後帰路に見上げた<深谷駅>

深谷市役所(埼玉県深谷市仲町)


深谷市役所新庁舎は令和2年(2020)7月27日に開庁。4階建ての低層で外壁などに赤レンガ約16万個をあしらった造りが特徴で、深谷出身の渋沢栄一が設立に尽力した日本煉瓦製造の工場が市内にあった歴史をアピールする。

渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市下手計)


平成7年(1995)11月11日"栄一翁の祥月命日"に開館され、渋沢栄一の遺墨や写真など資料の展示ほか、講義室では「渋沢栄一アンドロイド」による講義を見学することができる。

上記写真:埼玉県HPより転載

「渋沢栄一銅像」

「渋沢栄一のアンドロイド」(渋沢栄一記念館講義室)

深谷市の郷土の偉人・渋沢栄一(1840年~1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に本物そっくりの「渋沢栄一アンドロイド」が完成。当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現しており、アンドロイドが語る言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝える。この「渋沢栄一アンドロイド」は、深谷市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄付により制作とのこと。~深谷市HPより抜粋転載~

旧渋沢邸「中の家」(埼玉県深谷市血洗島)


この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。「中の家」は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助:栄一の父1809頃~1871)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。現在に残る主屋は、明治28年(1895)、妹婿市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。<埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」、市指定史跡> ~パンフレットより抜粋転載~

「正門」

薬医門の造り。

扉はケヤキの一枚板で作られている。

「若き日の栄一」

「主屋」

屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある

典型的な養蚕農家のかたちを残している

「渋沢栄一アンドロイド」

80歳頃の姿をイメージして制作した和装姿

「土蔵Ⅰ」

藍玉作りの作業場としてして使われていた

大谷石を積んだ半地下室を持つ

「土蔵Ⅱ」

米蔵として建てられたものとして推定

「土蔵Ⅲ」

道具蔵として使用されていたと推定

「土蔵Ⅳ」

1階を奥座敷、2階は宝蔵と推定

「晩香渋沢翁招魂碑」(右)

「先妣渋沢氏招魂碑」(左)

「晩香渋沢翁招魂碑」:栄一翁の父、渋沢市郎右衛門の招魂碑。撰文は尾高惇忠。

「先妣渋沢氏招魂碑」:栄一翁の母、渋沢えいの招魂碑。撰文は栄一翁によるもの

「渋沢平九郎追懐碑」

慶応4年(1868)5月23日、飯能で官軍に敗れた渋沢平九郎は、顔振峠から黒山村へ下りてきた。官軍の斥候隊と遭遇し、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決した。渋沢平九郎、享年22歳。渋沢平九郎は、栄一と従兄弟の関係にあたり、栄一の学問の師でもある尾高惇忠の弟(妻ちよの弟)。栄一が渡欧するにあたり見立て養子となった。

飯能戦争で若くして亡くなった平九郎の死を惜しんで、義父である栄一翁によって書かれた。

「渋沢平九郎」

かなりのイケメン!!😲

諏訪神社(埼玉県深谷市血洗島)


諏訪神社は血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。現在の拝殿は、大正5年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれている。境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある。~境内案内板より転載~

「二ノ鳥居」

木造で瓦屋根付き

扁額の文字は渋沢栄一直筆

「拝殿」

大正5年(1916)に渋沢栄一が

喜寿を記念して造営寄進

尾高惇忠生家(埼玉県深谷市下手計)


尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は天保元(1830)年下手計に生まれた。通称新五郎、諱は惇忠、藍香と号した。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からこの藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られている。後世、"藍香ありてこそ栄一あり"と称えられた人物で、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えた。明治時代を迎えると、富岡製糸場初代場長、第一国立銀行盛岡支店長、仙台支店長などを務め、幅広く活躍した。この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、栄一の妻となった千代、見立て養子となった平九郎、惇忠の娘で冨岡製紙場伝習工女第一号となるゆうが育った。また、若き日に惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたと伝わる部屋(非公開)が二階にある。<市指定史跡> ~パンフレットより抜粋転載~

二階(非公開)が若き日に惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたと伝わる部屋。

手前の写真が「尾高惇忠」。奥間の床の間にある額は渋沢栄一の「出藍精舎(しゅつらんしょうじゃ)」の書。

勝手口から内庭へ

内庭の「煉瓦造土蔵」

「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残ることから日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦で建てられたものであるとのこと。

「尾高家の鬼瓦」

「入山二」の印は当時菜種油の

商いをしていた尾高家の商標

藍の花

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設(埼玉県深谷市上敷免)


都市整備のために大量に必要とされた煉瓦製造を目的として、明治20(1887)年に渋沢栄一らによって設立された日本煉瓦製造会社の施設。明治21(1888)年に操業を開始。工場の敷地内には煉瓦焼成のための大規模な煉瓦構造物であるホフマン輪窯、旧事務所、旧変電室が残る。この工場で作られた煉瓦は東京駅を初めとする東京の主要な建築に用いられたことがわかっており、我国近代化の礎をなした施設として貴重である。

明治政府が計画した洋風建築による庁舎建設のため招かれたブラジル生まれのドイツ人レンガ技師ナスチェンテス・チーゼ(Nascentes Ziese/明治20年来日、明治22年帰国)の住居兼事務所(日本煉瓦製造会社を建設するための事務所)としても使用された。設計施工もナスチェンテス・チーゼ。明治22年12月にチーゼと令嬢クララがドイツへ帰国して以降は、建設された日本煉瓦製造会社の事務所として使われた。敷地内の明治40年に建造されたホフマン輪窯6号窯、煉瓦造りの旧変電室があり、国の重要文化財に指定されている。~日本旅マガジンHPより抜粋転載~ 残念ながら平日は旧館です😢。

深谷ねぎ畑

駅に戻る途中に見つけたレトロな町並み

七ツ梅酒造跡(埼玉県深谷市深谷)


七ツ梅酒造は、元禄7年(1694)に近江商人の田中藤左衛門が創業した酒造。創業以来300年の歴史を有し、県内でも1、2を競う老舗蔵元だったが、2004年(平成16)に廃業し、現在は所有者の意向を受けて、一般社団法人まち遺し深谷が、この歴史的・文化的な施設の保存および運営・管理を行っている。約950坪の敷地に母屋、店蔵、煉瓦造りの精米蔵、煉瓦煙突などの建築群が遺っている。~一般社団法人まち遺し深谷HPより抜粋転載~

煉瓦煙突

「深谷シネマ」

「七ツ梅酒造跡」敷地内にある全国で唯一の酒造蔵を改装してできた映画館。"県北にミニシアターを!"という深谷市民の声を集めてできた施設。