杉並区史跡散策Ⅰ


荻窪駅からスタート。「角川庭園・幻戯山房」、紅葉の「大田黒公園」、いちょうが色づく善福寺川沿いを歩きながら「尾崎熊野神社」「宝昌寺」、大イチョウで有名な「大宮八幡宮」と杉並区の史跡を散策。ゴールは「杉並区立郷土博物館」へ、"大正天皇の后 貞明皇后展"の観賞してきました-2023.12.03-

角川庭園・幻戯山房(杉並区荻窪)


杉並区立「角川庭園」は、俳人で角川書店の創設者である角川源義(げんよし)氏の旧邸宅を、2005(平成17)年に杉並区が遺族から寄贈を受けて改修。2009(平成21)年より幻戯山房(すぎなみ詩歌館)として一般開放。源義氏の書斎だった部屋に、ゆかりの品や俳句などを展示し公開しているほか、句会等を催せる詩歌室や茶室を貸し出している。

建物は、源義氏の俳句仲間だった建築家、加倉井昭夫氏による設計で、1955(昭和30)年に竣工の木造二階建瓦葺近代数寄屋造り(※)で、2009(平成21)年11月に国の登録有形文化財に登録された。(※)近代数寄屋(新興数寄屋)=建築家吉田五十八らによる近代主義(モダニズム)の影響をうけた和風様式、シンプルさを尊ぶ。~角川庭園HPより抜粋転載~

角川庭園の概要

上記:角川庭園HPより転載

「玄関」

「展示室」

玄関左側に応接間を改築した展示室

「茶室」

「石畳の径」

自然石を組み合わせた建築。当時からの石畳。

建物正面の中央の「芝庭」

茶庭から見た「茶室」

茶室前の「手水鉢」と「水琴窟」


源義氏が長野県の霧ヶ峰で詠んだ句碑

正門に入ってすぐのところにある

庭園のシンボル「芭蕉の木」

中国南部の暖帯~亜熱帯を原産とするバショウ科の多年草。バナナの仲間としては最も耐寒性があり、南国風の葉を観賞する観葉植物として古くから庭園や寺院を中心に植栽される。

有名な俳人である松尾芭蕉が江戸深川に構えた庵の号は、当初は「草庵」と呼ばれていたが、門徒から寄贈された芭蕉の木が立派に育ち、弟子達がこの庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになり、これを受けて自らを「芭蕉」と号するようになったという説があるとのこと。

大田黒公園(杉並区荻窪)


「大田黒公園」は、音楽評論家の大田黒元雄氏の屋敷跡地に、杉並区が日本庭園を整備して、昭和56年(1981)10月に開園。樹齢100年を超える「イチョウ並木」や回遊式日本庭園が広がる園内に、数寄屋造りの「茶室」をはじめ、仕事部屋として使用されていた「記念館」が残されている。紅葉の名所としても知られており、秋には60本以上のモミジが見事な色彩を造り出す。

「正門」

総檜、屋根は切り妻造り、桟瓦ぶき

塀は築地塀

園内マップ

上記:杉並区公式HPより転載

70mの御影石両脇には

樹齢100年を経た27本の大イチョウが続く


記念館(2階非公開) 登録有形文化財


この公園は、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年(1981)10月1日に開園。面積は8972.31㎡でそのうち2,679.63㎡は大田黒家から寄付されたもの。園内には、氏の仕事部屋であった記念館や蔵が保存されている。この記念館は、昭和8年(1933)に建築されたもので当時としては珍しい構造と意匠をもった西洋風の建築物。大田黒氏は、47年有余にわたりこの部屋で音楽活動を続けられた。室内には、生前氏が使用されていたピアノや蓄音機などが残されている。※大田黒 元雄 (音楽評論家:1893~1979年)~下記案内板より抜粋転載~

 

荻外荘(てきがいそう)


内閣総理大臣を3度務めた政治家 近衞文麿が、昭和12年(1937)の第一次内閣期から20年(1945)12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる会議を数多く行ったところです。このような歴史を持つことから、日本政治史上重要な場所であるとして、平成28年(2016)3月に国の史跡に指定された。~杉並区HPより転載~

※現在、整備・復元が進められており、令和6年に完成する見込み。

「善福寺川」

「善福寺川緑地」

善福寺池を源とする善福寺川が、杉並区の中ほどで大きく蛇行する辺りに、川に沿って善福寺川緑地と和田掘公園が広がっている。帯状に続く二つの公園は、全長約4.2k。武蔵野の面影を残す木立と子供の広場が交互に配され、整備された遊歩道でつながっている。春のサクラから秋の紅葉まで、四季の変化を楽しみながらの散策に最適の公園。~公園へ行こう!HPより抜粋転載~

尾崎熊野神社(杉並区成田西)


この神社は、五十猛命・大屋津比咩・抓津比咩命の三柱を祭神とし、旧成宗村の鎮守でした。当社の創建年代は詳らかでありませんが、大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝えられている。

「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には、「除地、五畝、小名尾崎にあり、社は二間に二間半、神軀白幣…村内寳昌寺ノ持ナリ」とあり、江戸時代には、宝昌寺が別当を務めていた。明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治41年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し、現在は境内末社として祀っている。地名の「尾崎」は、尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部をあらわし、このあたりの地形に由来したものと考えられている。

昭和43年秋、境内から縄文時代早期(井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・土師器時代(鬼高式)の住居址が発掘され、古くからこの地には、人間が住んでいたことがうかがわれる。なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約400年と言われ、区内でも有数の樹木の一つです。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「拝殿」

「神楽殿」

「尾崎稲荷」

「尾崎熊野神社のクロマツ」

<区指定天然記念物>

このクロマツは、幹周囲(目通り)3.27m、根元幹周囲5.5m、樹高32m、樹齢は400年以上と推定される。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大形で葉は大きく、樹幹も太く、樹皮が黒褐色をおびています。近年、クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきている。このクロマツは御神木として古くから氏子によって手厚い保護を受けており、樹冠面積は十分は広がりを持ち、樹勢も優れ、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なもの。杉並区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~


「尾崎橋」付近

宝昌寺(杉並区成田西)


白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像。当寺は、文禄3年(1594)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創された。曹洞宗となる以前は、真言宗の寺であったと伝わり、室町期作の旧本尊である木造大日如来座像(杉並区指定文化財)が現存している。江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもあった。安政3年(1856)火災に遭い、伝来の古記録類は焼失したが、境内にはなお多数の板碑のほか、区内で最古といわれる地蔵尊や庚申塔など多くの文化財が所蔵している。現在の本堂は大正8(1919)年の火災の後、大正10(1921)に再建されている。境内に奉安する豊川稲荷殿は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して、愛知県の豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)から分霊したもの。その利益は著しく、大正時代頃から近在諸村に豊川稲荷信仰が広まったといわれている。杉並区教育委員会掲示より ~下記案内板より抜粋転載~

「山門」

「六道地蔵」

「本堂」

上記写真:猫の足あとHPより転載

「聖観世音菩薩像」

「豊川稲荷堂」


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