泉岳寺(港区高輪)


「泉岳寺」は、曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。
さて、「泉岳寺」は、慶長17年(1612年)に門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した「泉岳寺」はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。~泉岳寺HPより抜粋転載~ 港区 すこやかマップウォーキング コース6で訪れました!! -2021.03.03-

「中門」

<港区登録有形文化財>

元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は「中門」と「山門」のみが残っています。現在の「中門」は天保7年(1836)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書。~下記案内板より抜粋転載~

中国明時代の禅僧

為霖動霈(いりんどうはい)による書

「大石内蔵助良雄銅像」

この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。~下記案内板より抜粋転載~

「山門」

<港区登録有形文化財>

この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書。~下記案内板より抜粋転載~

晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書

「江戸三龍」のひとつ

"銅彫大蟠龍"

裏側から見た「山門」

「本堂」

旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現「本堂」は、昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている。正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指す。~下記案内板より抜粋転載~

「獅子吼」の額は「ししく」と読む

お釈迦様の説法のこと

「澤木興道老師像」

仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人。

「梵鐘・鐘楼」

大正2年・四十一世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。~下記案内板より抜粋転載~

講堂(2階は義士木像館)

この建物は赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用されていました。関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられたものを平成16年に改装して現在に至っています。 現在一階は講堂として使用しており、毎週土曜日に学寮講座が開かれています。また2階は義士木像館として赤穂義士記念館と併せて公開している。

史跡 赤穂浪士義士墓所

「主税梅」

大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅

「瑤池梅」

義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したもの

「血染めの梅、血染めの石」

浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石。

「首洗い井戸」

義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている。

「浅野長矩及び赤穂義士墓所門」

<港区登録有形文化財>

この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの。

「浅野長矩および赤穂義士墓」

<国指定史跡>

赤穂義士は元禄16年(1703)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬された。ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていき、また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首したが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うし、曹渓寺に眠っています。泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。また、いわゆる47士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります(明和4年(1767年)9月建立)。したがって泉岳寺の墓碑は48あります。

「浅野長矩公之墓、長矩公夫人の墓」

「大石主税之墓」

大石主税は、大石内蔵助良雄の長男。赤穂義士の一人。最年少の十五歳で吉良邸への討ち入りで裏門隊の隊長を務めた。

「赤穂義士記念館」

討ち入り300年に当たり次の時代に引き継ぐべく、新たに建てられた義士に関する資料館。江戸時代終わりから明治二年までに制作された四十七義士の木像が収められている。