世田谷区散策Ⅰ(奥澤神社・九品仏・五島美術館)


「奥澤神社」「九品仏」「五島美術館」庭園を歩いて巡りました♬ ご近所なのに初訪問。知らずにいた名所、旧跡いっぱいあるんですね!! これからもコロナ禍の運動不足解消のためにも季節を感じながらご近所散策を楽しみたいと思いました😊 -2021.03.11-

奥澤神社(世田谷区奥沢)


室町時代に当時奥沢地区近辺の領主であった吉良氏の家臣・大平氏が奥沢城を築城するにあたって、世田谷郷東部の守護として八幡神を勧請したと伝えられる。当初は奥澤八幡と称され、吉良氏が各地に建立した「世田谷七沢八八幡」の一つに数えられていた。江戸中期に疫病が流行した際、名主の夢枕に八幡神が立ち「藁で大蛇を作り、村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」との神示があり実行したところ、ほどなくして疫病の流行が収まった。以来「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、奥沢神社の大蛇お練り行事は世田谷区から無形民俗文化財の指定を受け、現在に至るまで続いている。1874(明治7)年4月に村社に指定され、1909(明治42)年10月には旧奥沢本村の子安稲荷神社が合祀されることになり、これを機に「奥澤神社」と改称された。1970(昭和45)年に尾州檜材を用いて造営された社殿は、室町期の神社建築様式を採用したもので、都内においても他に類を見ないという。世田谷教育委員会 ~境内案内板より転載~

鳥居

鳥居に藁の大蛇

藁の大蛇は厄除けの守護神として崇められ、厄除として藁で作った大蛇を携えて練り歩く行事が行われるようになり、これが現在も続く「奥沢神社の大蛇お練り行事」。鳥居には前年の大蛇お練り神事で使用された藁製の「厄除大蛇」が巻き付いている。

「狛犬」と「手水舎」

「手水舎」

「社殿」

尾州檜材を用い、室町期の神社建築様式を採用

「本殿」

「神楽殿」

「御神木」

「社殿」の左手奥の「べんてん道」

「弁天社」

「子育延命地蔵尊」

享保20年(1735)に奉納

「八幡小学校発祥之地」の碑

かつて八幡小学校の校舎があった

九品仏浄真寺(世田谷区奥沢)


「創建の由来」

当山は広く「九品仏(くほんぶつ)」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺(くほんざんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城趾であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。~「総門」右の案内板より転載~

「総門」

扁額

当山二世珂憶(かおく)上人の高弟珂慶(かけい)上人の御筆で流麗雄渾(りゅうれいゆうこん)な筆致である。般舟とは般舟三昧の事でつねに行道念仏して現前に諸仏を見奉るを言う。般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経と共に古来より重んぜられている。当山は院号を唯在念仏院と称し念仏の道場であり参ずる人々に願往生の心を自然に発さんが為書かれたものである。~下記案内板より転載~

「般舟場(はんじゅじょう)」

「閻魔堂」

「六地蔵」

六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うという

「十夜講三界万霊塔」

「開山堂」

当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来お告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運として広く信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当たる毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄七年(1694年)10月7日、御年七十七歳にて示寂(じじゃく)され当山の西北にその御廟(ごびょう)がある。~下記案内板より転載~

「手水舎」

屋根上の黄金の「宝珠」

「観音堂」

「水子(子育)地蔵尊」

「浄大供養地蔵」


「仁王門」<区指定有形文化財>

重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。~下記案内板より転載~

「紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩」

当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいこうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。~下記案内板より転載~

扁額「紫雲樓」

仁王像

仁王門の彫刻

獅子の彫刻

「仁王門」の裏側

「境内」

境内周囲の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁(どるい)」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木の推定樹齢は七百年以上、また、トチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない。武蔵野の面影を残存する霊城である。参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる七堂伽藍(しちどうがらん)の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽浄土の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参詣結縁(けちえん)したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われていく都内の現状のなかできわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。~下記案内板より転載~

奥沢城跡 <区指定史跡>

奥沢城跡は、中世世田谷を治めていた吉良氏または同氏の家臣である大平氏の居館であったと伝えられている。天正18年(1590年)、小田原北条氏が滅び、吉良氏は下総国に逃れ、大平氏もまた等々力に潜居した。その後、奥沢城は廃城になったと考えられる。その後、延宝6年(1678年)に浄真寺が建立され、周囲を四角く囲む土塁はよく原形をとどめている。~世田谷区HPより抜粋転載~

「鐘楼」 <都有形文化財>

仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708)の建立である。梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖が二親菩提のため鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また、楼の四周に刻まれた十二支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。~下記案内板より転載~

「仏石足」

大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足(みあし)に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した。御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範に行われるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(せんぷくりんそう 法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。~下記案内板より転載~

「本堂」

本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼(しゃかむに)如来(文化財)を安置し、当山第二世珂憶(かおく)上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大荘重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。本堂はまた「龍護殿(りゅうごでん)」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会」(おめんかぶり)は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が来迎・往生・還来(げんらい)と3回橋を行道するものである。~下記案内板より転載~

浄真寺庭園

「本堂」横の枯山水庭園

扁額「龍護殿」

扁額「龍護殿」阿慶の筆

正面彫刻

「本尊釈迦如来坐像 」<都有形文化財>

西面する本堂に釈迦像が本尊として祀られている。寄木造で像高274~287・5センチの丈六仏。江戸時代の作。

これに相対する形で、東面して中央に「上品堂」、その右に「中品堂」、左に「下品堂」と三仏堂が並び、それぞれ阿弥陀像が三躰ずつ安置されている。

「九品仏と三仏堂」<区指定文化財>

珂碩上人(1617~94年)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳の時に完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九躰とも文化財の指定を受け、上品(じょうぼん)堂(中央)、中品(ちゅうぼん)堂(右)、下品(げぼん)堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三躰ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀仏さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身(み)と口(くち)と意(こころ)の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患(わずら)うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃(じょうるり)寺(九躰寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。~案内板より転載~

「上品堂」

「中品堂」

「下品堂」

修復中

三仏堂修復

元禄11年~12年にかけて建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである(都有形文化財)。~下記案内板より転載~

来迎会(おめんかぶり)

当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会(らいこうえ)」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道(ぎょうどう)する尊くもまた厳粛な行事である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。~下記案内板より転載~

菩薩のお面

上記写真:九品仏浄真寺HPより転載

「阿育王塔」

阿育(あしょか)王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。~下記案内板より転載~

「五社殿」

五島美術館(世田谷区上野毛)


五島美術館は、昭和35年(1960)4月18日に私立(財団法人)の美術館として、東京都世田谷区上野毛(かみのげ)に開館しました。美術館設立の構想は、東急グループの礎を築いた五島慶太(1882-1959)によるもの。建物(本館)は、和様空間の案出に秀でた芸術院会員・吉田五十八(1894-1974)が設計しました。王朝貴族の建築様式である寝殿造の意匠を随所に取り入れた建物は、近代建築史における貴重な建造物として注目されています。敷地は庭園を含めると約6000坪。武蔵野の雑木林が多摩川に向って深く傾斜する庭園には、「大日如来」や「六地蔵」など伊豆や長野の鉄道事業の際に引き取った石仏が点在し、ツツジ、枝垂桜など、季節ごとに多彩な花を咲かせます。散策路には明治時代に建てられた茶室「古経桜」や、慶太翁が古材を使用して作らせた立礼席の茶室「冨士見亭」<共に非公開>があり、これらは様々な茶会に利用されています。この2つの茶室は五島美術館本館と共に、平成29年(2017)10月27日付をもって国の登録有形文化財(建造物)になりました。~五島美術館HPより抜粋転載~ 今回は庭園のみの入園です。

登録有形文化財

五島美術館お散歩マップ

出典:futakoloko

「天祐庵門」

茶室「古経楼」(非公開)

<国登録有形文化財>

「稲荷丸古墳」

「五重層塔燈籠」

「お手植えの松」

「見晴台庭園」

ミツマタが満開!!

あずま屋から降りていきます♬

「瓢箪池」

「蓬莱池」

シャガの花

「赤門」

「大日如来洞」

「大日如来」

「佛域」

「春山総門」