荒川区南千住散策


下谷七福神巡り後に、都電荒川線三ノ輪橋駅より荒川区まちあるきマップ 南千住歴史・文化コース(下記)を参考に散策してきました。-2025.01.05-  下谷七福神巡りは、 下谷七福神巡り(Jan.2024) へ。

荒川区南千住まちあるきマップ

上記マップ:荒川区まちあるきマップ パンフレットより転載

都電荒川線 三ノ輪橋駅(荒川区南千住)


早稲田~三ノ輪橋間を運行する都電荒川線の始発・終着停留場。関東の駅100選の一つで、平成19年には昭和30年頃をイメージしたレトロ調のデザインに改修された。沿線では5月中旬~6月上旬・10月中旬~11月上旬頃、約140種、約13,000本のバラが咲き乱れる。~荒川区役所HPより転載~


浄閑寺(荒川区南千住)


明暦元年(1655)で開山上人は、天蓮社晴誉順波和尚である。本尊は阿弥陀如来。

投込寺(浄閑寺)

浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政2年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。檀徒の他に、遊女やその子供の名前が記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、10冊の過去帳が現存する。遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。 荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「山門」

江戸時代に建立されたもので、荒川区教育委員会より荒川区の最古の木造建造物として指定を受けている。

「本堂」

「浄閑寺史蹟」

「新吉原総霊塔」

現在の塔は昭和4年8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたもので、前の塚は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女五百余人が運ばれ供養されていた。新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は二万五千に及ぶ。~浄閑寺HPより転載~

「花又花酔句壁」

花又花酔(はなまた かすい)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した川柳作家。「新吉原総霊塔」の壁に、花又花酔の川柳が刻まれている。「生まれては苦界、死しては浄閑寺」は、新吉原の遊女の悲哀を表わしているとのこと。~浄閑寺HPより抜粋転載~

「小夜衣供養地蔵尊」

(さよぎぬ くよう じぞうそん)

元々は境内にあったが、今は山門前に立っている。「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えがあり、お参りの人が絶えない。 この小夜衣(さよぎぬ)については次のような話がある。京町1丁目の四つ目屋善蔵の抱え遊女、小夜衣は、女主人に放火の罪をきせられ、火あぶりの刑になった。ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに廓内から火が出て四つ目屋はいつも全焼し、ついには潰れてしまった。廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは、 年忌ごとの家事はなくなったとのこと。~浄閑寺HPより抜粋転載~

「ひまわり地蔵」

山谷で働き、連帯し支えあっている労働者の、死後の安心と安らぎのためにひまわり地蔵尊は建立された。地蔵尊が手に持つひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえる。~浄閑寺HPより転載~

「荷風花畳型筆塚」 

昭和38年建立(谷口吉郎氏設計)。永井荷風の死後、知人有志によって荷風を偲び建立された記念碑。中には荷風の2枚の歯と常用していた平安堂製白圭銘の小筆が1本納められている。設計者の谷口吉郎氏は帝国劇場や東宮御所などを設計された有名な建築家。また筆塚の側面の壁には偏奇館吟草の中より「震災」の詩を彫った黒御影石の歌碑がある。~浄閑寺HPより抜粋転載~

上記写真:浄閑寺HPより転載

「文豪永井荷風文学碑」

今の世のわかき人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の藝術を。 われは明治の兒ならずや。その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えにけり。團菊はしおれて櫻癡は散りにき。 一葉落ちて紅葉は枯れ 緑雨の聲も亦絶えたりき。

圓朝も去れり紫蝶も去れり。わが感激の泉とくに枯れたり。われは明治の兒なりけり。或年大地俄にゆらめき 火は都を燬きぬ。

柳村先生旣になく 鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。 江戸文化の名殘烟となりぬ。明治の文化また灰となりぬ。

今の世のわかき人々 我にな語りそ今の世と また來む時代の藝術を。 くもりし眼鏡をふくとても われ今何をか見得べき。

われは明治の兒ならずや。去りし明治の兒ならずや。   「震災」「偏奇館吟草」より

明治・大正・昭和三代にわたり詩人・小説・文明批評家として荷風永井壯吉が日本藝林に遺した業績は故人殁後益々光を加へその高風亦やうやく弘く世人の仰ぐところとなつた。谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩四十二人故人追慕の情に堪へず故人が「娼妓の墓亂れ倒れ」(故人の昭和12年6月22日の日記中の言葉)てゐるのを悅んで屢く杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた。荷風死去四周年の命日 昭和38年(1963)4月30日 荷風碑建立委員会 ~下記歌碑より転載~

円通寺(荒川区南千住)


延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりと小塚原とよぶようになったという。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の入谷鬼子母神真源寺とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊した。境内には、石像七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(1296)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。~荒川区教育委員会掲示による円通寺の縁起~

境内にある旧上野の黒門は、元々は上野の寛永寺に建っていたものです。慶応4年(1868)に彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争の際の激しさを今も伝える弾痕が数多く残っている。この黒門は、円通寺の住職が彰義隊士の遺体を埋葬し供養をしたのが縁で、明治40年(1907)に移設された。~荒川区HPより転載~

「本堂」

本堂にそびえる「聖観世音菩薩像」。全長12mもの高さがあり、その原形は、大正12(1923)年 高村光雲作一寸八分(円通寺蔵)とのこと。

「旧上野の黒門」

<荒川区指定有形文化財・歴史資料>

この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応4年(1868)5月15日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の銃弾が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏麿和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治40年(1907)に大帝室博物館より円通寺に下賜された。~下記標柱より転載~


「彰義隊士の墓」

慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏麿和尚官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。これが縁となって、明治40年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和60年に修復工事が行われている。 荒川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「彰義隊関係追弔碑群」

<荒川区指定有形文化財・歴史史料>

旧幕臣たちによって建立された墓碑を含む彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群。慶応4年(1868)5月15日の上野戦争直後に、当時の円通寺住職武田仏磨が、官軍に敗れて戦場に放置された彰義隊士の遺体を現地で火葬し、遺骨を円通寺に持ち帰って供養した。その際、彰義隊戦死者墓が建立され、彰義隊供養の拠点となった。以降、この墓塔の周囲に戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑が建立、あるいは他所から移設され、彰義隊ゆかりの寺としての景観が形成されていった。~下記標柱より転載~


御堂があって、扁額には「圓通精舎」とある。「圓通精舎」とは、円通寺の寺号で榎本武揚の書。

「四十八首塚」

八幡太郎の通称で呼ばれた平安時代後期の武将、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いた。このことによりこのあたりと「小塚原」とよぶようになったという。

首塚の上に「石造七重塔」。

「石造七重塔(享保七歳次壬寅端午日銘)」

<荒川区指定有形文化財・歴史史料>

享保7年(1722年)、円通寺中興開山の観月徹禅が伽藍の再興を記念して造立。基礎部分には、円通寺の縁起と造塔の経緯を記した「重興円通寺記幵塔銘」という造立銘があり、源義家が後三年の役後に当地に築いた「四十八塚」に由来する小塚原の地名伝説が含まれている。昭和15年(1940年)には、紀元二千六百年を記念して基壇が造られた。昭和57年(1982年)の境内整備の際に「四十八首塚」という築山を築き、頂上に移設され、現在に至る。~下記標柱より抜粋転載~

「七重塔」の台座脇に「板碑四基」。

「板碑四基(永仁四年十月日銘他)」

<「荒川区指定有形文化財・歴史史料>

円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁4年(1296)10月日銘は、日慶寺の正応2年(1289)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦4年(1329)正月29日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。~下記標柱より転載~

「圓通精舎」

扁額は円通寺の寺号で榎本武揚の書によるもの

旧千住製紙所煉瓦塀(荒川区南千住)


「旧千住製絨所煉瓦塀」

<荒川区登録有形文化財(歴史資料)>

この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っている。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定される。千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていた。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されている。当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になった。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当する。

千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えた。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していった。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じた。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。 荒川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

素盞雄神社(荒川区南千住)


素盞雄神社(すさのおじんじゃ)

《御祭神》素盞雄大神、飛鳥大神《祭礼》6月3日(天王祭)、9月15日(飛鳥祭)

【由緒】小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、珪石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて信託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間(1751〜64)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳時記」(天保9年)にその雄壮な様が描かれている。荒川区教育委員会 ~鳥居脇案内板より転載~

境内MAP

上記MAP:素盞雄神社HPより転載

「表参道」

表参道の鳥居の手前に一対の「狛犬」

文化五年(1808)奉納

「手水舎」

地下140mから御神水を汲み上げている。

「御神水」

平安時代延暦十四年創建より悠久の千二百有余年。江戸の文人墨客たちに飛鳥の杜と親しまれたこの境内に、神事ならびに非常時の生活用水として広く地域に供すべく、平成二十六年六月、深井戸(深度140m)を新設いたしました。深井戸掘削により実施した水質試験の結果、【飲料適合】と出ましたので、手水舎の水を天地の恵み〔御神水〕に切り替えています。お水取りの方は、水鉢後方に蛇口があります。~下記案内板より抜粋転載~


龍の吐水口から水が流れる

「狛犬」

尾の形が特徴的な狛犬。御殿正面左側は珍しい親子の獅子。


「社殿」

昭和32年(1957)に鉄筋コンクリート造で再建。

「神楽殿」

「天王宮」「飛鳥社」と両社の提灯が掛かっていて、江戸中期までは2つの社殿が別々にあった当社の歴史を伝える。

右手に富士塚を兼ねた「瑞光石」

瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光珪石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。嘉永4年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。万延元年(1860)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。 荒川区教育委員会 ~下記境内案内板より転載~

「富士塚」

<荒川区指定記念物・史跡>

元治元年(1864)、「瑞光石」のある小塚上に浅間大神を祀り富士塚としたと伝え、「お富士さま」と呼ばれている。富士講の一つ、丸瀧講が築造。山肌をクロボウ(溶岩)で覆い、山頂の浅間社、中腹の小御嶽、山裾の石尊、人穴等が設けられている。富士講によって築かれた典型的な形状で当初の形体を良く保っている。幕末から大正期に奉納された富士講等の石碑20基も伝存。近代には「南千住富士」とも呼ばれ、東京七富士廻りの北廻りコースの一つに数えられた。6月朔日(新暦7月1日)の山開きには麦藁の蛇がお守りとして境内で売られたという。地域の民間信仰の姿を今日に伝えるばかりでなく、江戸時代から近代にかけて流行した富士信仰の学術資料としても大変重要である。 荒川区教育委員会 ~下記標柱より抜粋転載~

「庚申塔群三基(寛永十三年銘他)」

<荒川区指定有形民族文化財>

江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘がある。庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した諸願成就の証しとして建てられたもの。中央の寛文13年銘の庚申塔は、聖観音が本尊。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られる。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえる。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見える。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれている。寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえる。荒川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「東参道」

日光街道沿い。大正4年(1915)建立の鳥居。

「社殿」の側面

「天王社の大銀杏」

素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。「江戸名所図会」にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。この大銀杏は、幹の周囲約3.3m、高さ約30mである。この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

「子育て祈願絵馬」

「奥の細道矢立初めの句碑」

千寿と云所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別の泪をそゝく

行く春や鳥啼魚の目ハなみた(行く春や鳥啼き魚の目は泪)

松尾芭蕉『奥の細道』矢立初め(旅立ち)となった有名な一節。「矢立(やたて)」とは、携行用の筆記具のことを意味する。文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晃の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられた。建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できないために、平成7年当社御鎮座 1200年祭に際し復刻し、これを契機に全国俳句大会をはじめ様々な俳句興隆事業が行われている。~素盞雄神社HPより抜粋転載~

上記:素盞雄神社HPより転載

千住大橋


文禄3年(1594)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、200m程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。現在の鋼橋は、昭和2年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。荒川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

橋を渡って、北岸の足立区、芭蕉の「おくのほそ道 旅立ちの地」へ。

大橋公園(足立区千住橋戸町)


「おくのほそ道行程図」

元禄2年(1689)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644~1694)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発しました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。この紀行が、元禄15年(1702)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かなたびに思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。~下記案内板から抜粋転記~

おくのほそ道 旅立ちの地

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく

北斎「富嶽三十六景」の中で描いた場所との案内板も。

 冨嶽三十六景

「従千住花街眺望ノ不二」

(せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)

千住浮世絵顕彰碑

葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてる。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。~下記案内板より抜粋転載~

回向院(荒川区南千住)


回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当寺は常行堂と称していた。安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に解体新書を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、対象11年に観臓記念碑が建立された。荒川区教育委員会 ~下記案内板より転載~

小塚原の刑場跡 回向院

<荒川区指定記念物(史跡)>

小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれていル。間口60間(約108m)、奥行30間余り(約54m)、約1800坪の敷地だった。日光道中に面していたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していた。小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけはでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われた。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施された。また徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもあった。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていた。明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていった。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となり、また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。 荒川区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「観臓記念碑」<荒川区文化財>

蘭学を生んだ解体の記念に

1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心の末、ついに1774年・安政3年8月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに1992年奨進医会が「観臓記念碑」を本堂裏に建てたが、1945年2月25日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。1959年 昭和34年3月4日 第15回日本医学会総会の機会に 日本医史学会 日本医学会 日本医師会 ~下記案内板より抜粋転載~

史蹟エリア

安政の大獄で処刑された「橋本左内の墓」

<荒川区文化財>

安政の大獄で処刑された「吉田松陰の墓」

<荒川区文化財>

1863年に改葬され、ここにあるのは墓だけ。遺骸は弟子の高杉晋作らによって現在の松陰神社(世田谷区)に眠っている。

小塚原刑場で処刑された4基の墓

左から大名屋敷を専門に盗みを働いた「鼠小僧次郎吉」、ゆすり・たかりの小悪党で歌舞伎の題材にもなった「片岡直次郎」、日本で最後に斬首になった殺人犯の「高橋お伝」、侠客で喧嘩で斬られた腕を子分に切り落とさせた「腕の喜三郎」の墓

松尾芭蕉像(荒川区南千住)


奥の細道 矢立初めの地 千住

元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は、ここ千住の地から奥の細道の旅へと出立した。この像は、矢立初めの句を詠む芭蕉の姿を表現したもの。

千じゆと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行く春や鳥啼き魚の目は泪 

是を矢立の初として、行く道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後かげみゆる迄はと、見送なるべし。「おくのほそ道」より ~下記案内板より抜粋転載~

平野千里氏の作品