佐倉散策Ⅰ 佐倉城址公園


酷暑の夏からひと段落。" 大人の遠足 " 再開。第一弾「佐倉散策」。<日本遺産> 北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み ─ 佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群 ─ から、今回は「佐倉」。

京成佐倉駅からスタート。<佐倉散策Ⅰ> 佐倉城址公園。<佐倉散策Ⅱ>「ひよどり坂」、「佐倉武家屋敷」、「麻賀多神社」、「旧堀田邸」、「佐倉順天堂記念館」へ。秋の陽射しが気持ちよい城下町散策でした。 -2023.10.11-

上記MAP:佐倉市観光協会HPより転載

佐倉城址公園


佐倉城址公園は、佐倉市指定史跡である佐倉城跡を整備した歴史公園。本丸、二の丸、三の丸はもちろん、さらにその外縁の郭も広大かつ良好に残り、その郭の一部には国立歴史民俗博物館がある。天守跡、馬出し空堀、水堀に守られた南出丸や西出丸は必見。天守跡脇には土井勝利公が庭木として植えたと伝えられる樹齢約400年の「夫婦もっこく」(千葉県指定天然記念物)がある。また、シイ、カシ、モミジなどの大木がいたる所にある緑多き歴史公園。また、春には約50品種1,100本もの桜が咲き誇る。園内には昔、乳母が若君を池のほとりで遊ばせていた際、あやまって若君を溺れさせてしまったという悲しい話が伝わる「姥が池」や、茶室「三逕亭」、堀田正睦公の銅像、正岡子規の句碑がある。また、明治以降陸軍の連帯が置かれたことから連帯の足跡も各所に残っている。公園の東端に、佐倉城に関する模型や古写真、出土遺物などを展示した佐倉城址公園管理センター(佐倉城址公園センター)がある。~下記散策マップより抜粋転載~

古園石仏大日如来像


国立歴史民俗博物館の北の入口から少し上った右側、連隊時代の衛兵所跡の一角に、大分県臼杵(うすき)市の「古園石仏大日如来像」が実物大で再現されている。

日本を代表する臼杵磨崖仏のなかで、最も有名な古園石仏(大日如来及び諸尊仏13体)の中心をなす大日如来像である。凝灰岩の岩壁から掘り出したもので、平安時代の後期の木彫像に通ずる本格的な作風を示す丈六仏(約2.8m)である。~下記案内板より転載~

国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)


国立歴史民俗博物館(歴博)は、千葉県佐倉市の佐倉城趾にある。歴博は、歴史学、考古学及び民俗学に関する我が国唯一の国立博物館であり、我が国の歴史資料、考古資料及び民俗資料を収集・保管し、展示している。本館の展示は、日本の歴史の各時代の中で学問上有益でしかも誰でも興味を持つ問題について課題別に行うことにより、歴史の推移や断面をわかり易く観覧者に示し、我が国の歴史と文化についての知識と理解を深めることを目的としている。~下記案内板より抜粋転載~

佐倉城跡


「田町門跡・愛宕坂」

成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所があり、現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷があった。田町門から現在歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていた。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入できるように変更されたもの。~下記案内板より抜粋転載~

馬出し空濠

城門前に築いて人馬の出入を敵に知られぬようした土手が馬出しである。この空濠は、明治初期より連帯造営のため埋め立てられていたもので、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認された。復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし、深さを約3mとしてある。~下記案内板より抜粋転載~

「椎木門跡」

北面、木造、本瓦葺、二階造り梁間三間、桁行七間。前面に馬出しが設けられていた。

「佐倉城の礎石」

昭和59、60年(1984、1985年)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。佐倉城は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873年)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。~下記案内板より抜粋転載~

「二の丸御殿(御番所、対面所)跡」

常磐木や冬されまさる城の跡 子規

明治期における俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867-1902)は、1894年(明治27年)本所駅(現錦糸町駅)-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている子規は、総武鉄道佐倉駅(現JR7佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる『馬の背』のような台地を眺め、「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」を読んでいる。現在の表町、新町方面より、日清戦争における清国人の捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っている。その後、海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を詠み、もとの道を佐倉駅へ引き返している。子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や旧佐倉藩士であり、佐倉で幼青年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交があった。「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」の句碑は、JR佐倉駅前城南橋付近にある。佐倉市役所 商工観光課~下記案内板より抜粋転載~

「一の門跡」

東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間。本丸からみてはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。

「土塁」

佐倉城は石垣のない土づくりの城。城の防御のための土手を土塁と呼ぶ。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して城の守りとしている。本丸の土塁の上には土塀が存在していた。~下記案内板より抜粋転載~

佐倉城の夫婦モッコク<千葉県指定天然記念物>

モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木である。本樹は、もともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合してできたものか、明らかでない。樹高11.6m、目通り幹囲2.6mで、モッコクとしては巨木である。佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長16年(1611)から元和3年(1617)まで7年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。~下記案内板より抜粋転載~

兵士が文字を彫り込んだモッコク

本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られている。~下記案内板より転載~

「本丸跡」

佐倉城本丸天守及びその石碑について

佐倉城の天守(天守閣)は、2段の土塁上に片側を掛ける造りでした。本丸側からは4階建て、反対側崖下(搦め手側)からは3階建てに見えました。その造りを石碑で再現しています。天守(天守閣)は、文化10年(1813)に盗人の行燈が倒れたことによる火災により焼失し、その後再建されませんでした。天守(天守閣)の模型は、城址公園東端にある佐倉城址公園センターに展示されている。※佐倉城は、旧下総国周辺に良好な石の産地がなかったこと等から石垣を使用していない珍しい近世城郭です。その一方で戦国時代から続く土の城の最終到達点(集大成)といわれている。※石碑は天守跡(2段の天守台)左側土塁上にある。~下記案内板より抜粋転載~

「本丸家形配置図」

「本丸跡」

「台所門跡」(不明門)

「二の門跡」

東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間。本丸から大手門にいたる第二の門で「ニの御門」と呼ばれていた。-の門の東方-直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。~下記案内板より転載~

「堀田正睦公像」

日本を鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、文化7年(1810年)8月1日に生れ、文政8年(1825年)に佐倉藩主となった。天保4年(1833年)に藩政改革を宣言し、文武の奨励によって藩士の意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注いだ。特に、藩校の拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、多くの人材を育成した。公は、天保12年(1814年)に幕府の老中に就き、安政2年(1855年)には老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられる。「攘夷」が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けた。元治元年(1864年)3月21日、公は、佐倉城中の三の丸御殿で卒し、甚大寺に葬られた。後に、法号から「文明公」と称えられ、広く敬愛されている。この銅像は、佐倉ライオンズクラブは正睦公の遺徳を偲び、クラブ創立40周年を記念し、ゆかりの地に建立。 ~案内板より抜粋転載~

左側に「タウンゼント・ハリス像

茶室「三逕亭」

「三の門跡」

北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行六間。この門は御作事の諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は三の丸といい、家老屋敷が置かれていた。~下記案内板より転載~

「空堀」

城の防御のための溝で水の無いものを空堀と呼びます。空堀は土塁とともに城を外敵から守るために掘られたもので、空堀を巧みに配置し城の守りとしています。また、水のあるものを水堀と呼びます。~下記案内板より転載~

「空堀」

「姥が池」

この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行っていたと、「古今佐倉真佐子」(江戸時代中頃の書物)に記されています。後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥があやまって娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。~下記案内板より転載~

「大手門跡」(追手門)

佐倉城の大手門と周囲の様子

かつて、この場所には佐倉城の大手門(追手門)があった。大手門は、城の正面玄関として作られた門。この門と三の門を結ぶ広小路の通りには、佐倉藩の重臣を含む藩士たちの武家屋敷が立ち並び、江戸時代後期には藩主が普段の生活を送る三の丸御殿が築かれた。江戸時代中期の佐倉藩士渡辺善右衛門によって書かれた「古今佐倉真佐子」には、大手門について「二階門はかわらぶき、しゃちほこ付く、足軽番門下なり。門のそと十五間四方ばかり升形土手をつき廻し」と記されている。佐倉城の大手門が、シャチホコが屋根に乗った二層の瓦葺の城門であり、門の前には「升形」とよばれる四方を土手や壁で囲んだ空間があったことがわかる。升形には敵の直線的な侵入を防ぐ役割があった。~下記案内板より抜粋転載~

佐倉藩の藩校(佐倉高校の前身である)は、寛政4(1792)年に藩主堀田正順公が藩士の子弟教育のため宮小路 の麻賀多神社前に設立した「学問所」に始まり、文化2(1805)年には「温故堂」と改称。 教育の基本は幕府が正学とした「朱子学」で、幕藩体制や人間関係の秩序を重んじる教育がされた。天保7(1836)年に藩主堀田正睦公が佐倉城追手門前(現佐倉市民体育館)に移転拡充し、「成徳書院」と改称。明治4(1871)年の廃藩置県により藩校は廃止となった。~「佐倉高校の歴史と文化財」より抜粋転載

「ひよどり坂」「佐倉武家屋敷」「麻賀多神社」「旧堀田邸」「佐倉記念順天堂記念館」は、佐倉散策Ⅱ ヘ。