佐原散策Ⅱ 佐原エリア


<日本遺産> 北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み ─ 佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群 ─ から、前回は「佐倉」。今回は「佐原」を散策。

日本屈指の名社「香取神宮」と小野川沿いに伝統的建造物が残る「佐原の町並み」、日本厄除三大師のひとつ「観福寺」の佐原エリアを回ってきました。-2023.10.24-

佐原まち歩きマップ

上記マップ:佐原町並み交流館HPより転載

佐原の町


佐原は、江戸時代から昭和の初めまで、関東では有名な商業の町でした。今でも、その町並みが残されている。佐原を商いの町として発展させたのは、町のほぼ中央を流れる小野川。この小野川が利根川に結んだことによって、ますます佐原が大きく発展した。昔は、川が人や物を運ぶ重要な交通機関だったからです。水運によって栄えた特長ある町並みが現在も保存し続け、見る人に当時の繁栄ぶりや生活など、様々な思いを抱かさせてくれる。この歴史的景観が残る町並みとして、文化庁より「重要伝統的建造物群保存地区」に平成8年12月選定された。(全国43番目、関東地区では1番)江戸への行き来だけではなく、遠くは諸国へと結んだ交通要所の小野川、その川沿いに各種の問屋や醸造業が建ち並び、香取街道沿いには、鬼瓦を載せた木造の商家や町家、重厚な蔵造りなど江戸時代の様子がしのばれる。~佐原町並み交流館HPより抜粋転載~

佐原駅

佐原の町並みを形成する最大要素が軒を連続する町屋であることから、日本瓦屋根と杉赤身材(地場材)を取り入れた、町屋の意匠を感じられる駅舎デザインとしている。瓦屋根はいぶし瓦、棟積、鬼瓦、下り丸等本流仕様であるが、佐原の新しい顔としてシャープで端正なファサードとなっている。~JR東日本建築設計HPより転載~

「伊能忠敬翁銅像」

伊能忠敬翁没後200年の節目の年

平成30年(2018)に建立

香取市佐原伝統的建造物保存地区 <日本遺産>


市街地中心部を南北に流れる小野川と、これに交差する香取街道沿いの地区。蔵造りの町屋や土蔵、洋風建築などの伝統的建築物が立ち並び、小野川沿いには石階状の「だし」が残り、佐原河岸として繁栄した歴史的景観を今に伝えている。~日本遺産北総四都市江戸紀行活用協議会HPより転載~

「正上」

<千葉県有形文化財>

江戸時代より醤油の醸造をしていた老舗。創業は寛政12年(1800年)5月。現在は10代目。戦後は佃煮の製造販売が主となった。土蔵は明治初期の建築。江戸時代の店構が残る数少ない建築物であり、当時の戸締りの方法である「よろい戸」方式が残っている。店の奥には千本格子の障子戸が残り趣がある。<建築年代>店舗:天保3年(1832)土蔵:明治元年(1868)~香取市役所HPより転載~


「三菱館」

<千葉県有形文化財>

旧三菱銀行佐原支店(香取市所有)県内でも有数の洋風建築として知られ、レンガを使った2階建ての洋館。内部は吹き抜けになっており、2階周囲に回廊がある。屋根は木骨スレート葺きで、正面建物隅にドームを設けている。川崎銀行佐原支店(開業明治13)として、大正3年に清水建設の前身である清水満之助商店により建設された。<建築年代>大正3年(1914) ~香取市役所HPより転載~

上記写真:東京新聞HPより転載

大理石と装飾漆喰の暖炉(復原)

銀行業務を象徴するカウンター(復原)

曲線美が織りなす螺旋階段(復原)

「中村屋乾物店」

<千葉県有形文化財>

店舗は、明治25年(1892年)に佐原を襲った大火直後に建築されたもので、当時最高の技術を駆使した防火構造で、壁の厚さが1尺5寸(約45cm)にもなる建物。間口は3間で、1階は畳敷と通り抜け土間のある店構え、2階は屋根裏を表した倉庫になっている。1階の正面は揚戸と土間の建て込み、2階は観音開きの土戸としている。小屋組み6段、出し桁化粧造りとなっている。

文庫蔵(総檜)は、店舗から1間程離れて建つ3階建ての建物で、1階と2階は明治18年(1885年)の建築、3階は店舗とともに明治25年(1892年)の大火の前の形で再建されたもので、2室(8畳間と6畳間)続きの座敷となっている。限られた敷地の中に蔵造りの建物が建つため、居室に文庫蔵の3階をあてるなど居住空間の配慮に工夫が見られる。建築当初の様子がそのまま残っており、堂々としたたたずまいである。<建築年代>明治25年(1892)~香取市役所HPより転載~

「油茂」

戦国時代、千葉国分氏に仕えた武士、小田原北条氏滅亡後佐原に帰農して製油業を始めた。現在22代目。江戸末期、国学者で歌人の伊能穎則(明治天皇前で「令義解」を講じた)を生出している。明治25年大火後に建築した建物で、2階の格子や外観は明治期の特徴をよく残している。内部も左奥に2階への急な階段や座敷の千本格子障子など商家としての佇まいが窺える。屋敷の奥には大火以前の土蔵がある。古い家相図が残り建物配置を見ることができる。<建築年代>店舗:切妻平入り 明治25年(1892)築 土蔵:切妻妻入り 明治期 築 創業:江戸時代初期 ~下記案内板より抜粋転載~

「正文堂」

<千葉県有形文化財>

大黒柱は欅材、2階の窓は土塗の開き戸、さらに横引きの土戸に板戸と、三重に防火設備を伏した土蔵造りとなっている。登り龍、下り龍を配した看板が特に目を引く。「正文堂」の文字は巌谷修の書(明治29年)である。重厚などっしりとした立派な建物である。<建築年代>明治13年(1880)~香取市役所HPより転載~

「小堀屋本店」

<千葉県有形文化財>

創業は天明2年(1782年)切妻平入瓦葺きの建物で、奥の土蔵には蕎麦作りの秘伝書や道具類が残っていた。建物は木造2階建で、店舗、調理場、土蔵が一体となった明治時代の形式をそのまま残している。表のガラス戸は明治35年に旧佐原市で初めて使われたものであり、貴重な文化財である。<建築年代>店舗:明治25年(1892)土蔵:明治23年 ~香取市役所HPより転載~

「福新呉服店」

<千葉県有形文化財>

文化元年(1804年)の創業、佐原で八代目の老舗。前面と側面は土蔵造りの堂々とした間口で当時の隆盛が偲ばれる。店舗奥には、井戸のある中庭があり、文化財の土蔵やトイレなどを一般公開している。佐原の商家の典型的なつくりで、映画、ドラマのロケ地として使われる。<建築年代>店舗:明治28年(1895)土蔵:明治元年(1868)~香取市役所HPより転載~

「中村屋商店」

<千葉県有形文化財>

明治7年頃より代々荒物・雑貨・畳を商ってきた。正面の交差した道路に沿った変形の敷地であるため、母屋の角の柱を五角形断面にしている。内部の架構に工夫をこらし、間取りも変形平面の部屋を設ける等、全体として一階に店舗と台所を、二階には座敷を設け、よくまとまった平面構成となっている。<建築年代>店舗:安政2年(1855)土蔵:明治25年(1892)以降 ~香取市役所HPより転載~

「植田屋荒物店」

「伊能忠敬記念館」

50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、わが国最初の実測日本地図「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を作成した伊能忠敬(1745-1818)。記念館では、醸造業などを営む豪商の伊能家へ17歳で婿養子に入り、家運を盛り立て佐原の名主として活躍した前半生、そして49歳で隠居してのち江戸に出て勉学に励み、55歳から71歳まで計10回にわたって全国測量を行った忠敬の人生を、年代順に追って紹介している。平成22年6月、伊能忠敬が残した資料2,345点が国宝に指定。

「小江戸さわら舟めぐり」乗り場

樋橋(とよはし)から、約30分間の舟下り。

樋橋(とよはし)<通称:ジャージャー橋>

「伊能忠敬旧宅前」にある、小野川にかかる橋。もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋だった。300年近く使われ、戦前にコンクリートの橋になってからも橋の下側につけられた大樋を流れる水が、小野川にあふれ落ちて「ジャージャー」と音を立てるので、「ジャージャー橋」の通称で親しまれていた。今の橋は観光用につくられたもので、30分ごとに落水。この樋橋から流れ落ちる水の音は「残したい”日本の音風景100選”」に選ばれている。~香取市役所HPより転載~

30分ごとに落水

「伊能忠敬旧宅」

<国指定史跡>

伊能忠敬が佐原で30年余りを過ごした母屋と店舗がそのまま残されている。母屋は寛政5年(1793)忠敬自身が設計したものといわれている。忠敬翁は17歳で伊能家の養子となり、醸酒業ならびに米穀薪炭販売に精励すると共に、村政の中心として活躍した。50歳で隠居をして、天文学や地理学を学び、大日本沿海輿地図を完成させたことで広く知られている。佐原が生んだ世界に誇る科学的地図を作成した偉人である。<建築年代>店舗・正門:不明 書院:寛政5年(1793年)土蔵:文政4年(1821年)以前 ~香取市役所HPより転載~

上記写真:日本遺産北総四都市江戸紀行活用協議会HPより転載

「土蔵」<国指定史跡>

土を厚く塗り、漆喰で仕上げた壁を持つ耐火性の高い倉庫で江戸時代中期に建てられた。主に穀物類や家財道具を収納していたが、後にこの土蔵には伊能忠敬に関する資料などが収蔵されていた。木造切妻づくりで桟瓦葺の屋根を持ち、桁行7.28m、梁間4.53mの土蔵造りとなっており、観音扉より古い様式である引き戸の扉となっている。昭和58年(1983)からの解体工事で、内部の板壁裏面に文政4年(1821)・同5年と記された修理墨書銘などが確認されている。~下記案内板より抜粋転載~

「宮定」

創業者の宮澤定七の名を取って「宮定」とした。7代目。代々魚問屋、蒲鉾の製造・販売を業としてきたが、現在は、割烹として営業している。寄棟で瓦を道路側に葺き下ろし連続した町家景観を形成する。水路は江戸時代の農業用水路、小野川上流の関で水を揚げ、、本宿から新宿に「桶橋」で通水した。右の切妻平入り総2階の建物は、平成に外観を修景して町並み景観を整えた。<建築年代>店舗:寄棟妻入り 明治26年(1893)昭和21年改築。創業:文化4年(1807)~下記案内板より抜粋転載~

「与倉屋大土蔵」

明治22(1889)年に建てられた大土蔵は500畳分の広さを持ち、当時県内最大級の規模を誇った土蔵。蔵の持つ独特な雰囲気を活かし、現在はイベント会場などとして利用されている。

八坂神社(千葉県香取市佐原)


八坂神社由緒

祭神】:素戔鳴命(すさのおのみこと)御神徳:厄除け家内安全・商売繁盛・子孫繁栄創建:寛永14年(1637)に奥宮より勧請される。奥宮:諏訪上字天王宮に鎮座する。旧神輿(市指定文化財)江戸時代中期の成作により、市内に現存する神輿の中でも古いものと言える代表的美術品である。現在山車会館に展示されている。祇園祭山車巡行当社氏子中を本宿惣町と言う。本宿惣町十二町内の内、十町内に十台の山車が有り、その山車まつりは、国の「重要無形民俗文化財」に指定されており、山車を飾る彫刻の見事さと、大天井に鎮座する大人形の勇壮な様は見る者の心を奪い、山車ともう一方の主役お囃子(下座連)は、日本の祭りばやしの中でひときは秀でたものである。山車の夜間巡行は山車の灯かりが川面に揺れて雅で美しい。当社の山車行事は、平成28年12月1日にユネスコ無形文化遺産に登録される。~下記案内板より抜粋転載~

妙光山 観福寺(千葉県香取市牧野)


【名称】妙光山 蓮華院 観福寺開基】890年(寛平2年)尊海上人により本尊平将門の守護仏とされる聖観世音菩薩(木像秘仏)宗派真言宗 豊山派 (しんごんしゅうぶざんは)(総本山は奈良の長谷寺)歴史的役割中世より千葉氏の祈願所として武士の信仰を集める。近世に入り地方の檀林(僧侶の養成所、学問所)として多くの僧侶を輩出し、やがて地元伊能家の菩提寺として厚い帰依をうけ、当家から複数の住職も輩出された。境内には日本地図の恩人 伊能忠敬や国学者の伊能魚彦、伊能穎則の墓所もある。現在も宗派の事相専門道場(僧侶の修行、研修の場)~観福寺HPより転載~

「山門」

<国指定重要文化財>(鋳造懸仏4体)銅造十一面観音坐像・銅造釈迦如来坐像・銅造薬師如来坐像・銅造地蔵菩薩坐像


「境内案内」

境内配置図

上記配置図:観福寺HPより転載

「手水屋」

「本堂」(講堂)

本尊:胎藏界大日如来 江戸時代 文化8年(1811)鏡真和尚再建

「不動堂」

本尊:不動明王  江戸時代 文化15年(1818年)鏡真和尚発願、快恵和尚の再建

「観音堂」

本尊:聖観世音菩薩(観福寺の御本尊・平将門の守護仏) 元禄年間 春海和尚建立

「大師堂」

本尊:厄除弘法大師(日本厄除三大師の一つと称される)江戸時代 文政12年(1829年)秀珍和尚の建立

「毘沙門堂」

興教大師八百五十年御遠忌記念新築 

平成7年(1955)建立

「鐘楼堂」

江戸時代 文化8年(1811年)建立

「鐘楼堂」横から本堂を臨む

伊能忠敬

延享2年(1745)、上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)に生まれ、17歳のとき佐原村の伊能家に婿養子になった。以後三十余年の間、名門伊能家の主人として、また村の名主、村方後見などの役についてはたらいた。隠居後、50歳で江戸に出て、幕府天分方高橋至時から本格的に西洋流の暦学を学び、幕命によって1800年から17年間、海岸線を実測して精密な地図を作った。これによって、日本の国土の正確な形と地球上の位置がはじめて明らかにされた。1818年5月17日(文政元年4月13日、江戸八丁堀亀島町で死去。遺言により、遺体は浅草源空寺の高橋至時の墓側に葬られた。佐原観福寺の伊能家の墓には遺髪と爪が埋められた。 佐原の伝統・文化を大切にする会 ~下記案内板より転載~

「伊能忠敬墓」

<香取市指定史跡>


「香取神宮」は、佐原散策Ⅰ 香取神宮 ヘ。