江戸川散策(門前仲町・深川)


「深川花手水 2023 -春-」 のイベント開催を知り、行ってきました!!。せっかくなので「花手水」鑑賞の後、「木場公園」を通り抜け、「仙台堀川公園」途中から「横十間川親水公園」へ。そして、「猿江神社」まで足を延ばしてみました。「深川花手水」の色とりどりの写真は、「深川花手水 2023 -春-」 へ。-2023.05.25- 

深川東京モダン館(江東区門前仲町)


深川東京モダン館は、平成21年(2009)10月10日に開館した江東区の観光と文化の拠点。江東区は、富岡八幡宮・深川不動尊で賑わう門前仲町、深川江戸資料館や東京都現代美術館などの文化芸術施設が集まる清澄白河、亀戸天神・香取神社などの神社仏閣が集まる亀戸、そして近年集合住宅やショッピングモールが建ち並ぶ豊洲など、さまざまな顔を持つ地域が集まっています。当館では、このような地域資源や江東区の情報を紹介している。また、昭和7年(1932)に東京市営の食堂として建築された当館は、平成20年に国登録有形文化財として指定されている。~深川東京モダン館HPより抜粋転載~

上記写真:江東お出かけ情報局HPより転載

旧東京市深川食堂

<江東区登録有形文化財(建造物)>

<国登録文化財> 

東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正9年(1920)から順次設置した16カ所の市設食堂のひとつ。延床面積は106坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和6年(1931)に着工、翌7年3月に竣工。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。11年に閉鎖されたが、13年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災したが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、32年には授産機能、36年には福祉機能が追加された。54年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成18年に閉鎖されるまで利用された。構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建築物としての希少性が認められ、平成20年に国登録文化財に登録された。江東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

深川花手水 2023 -春-

深川花手水は、門前仲町を中心とした寺社仏閣やさまざまな商店に花手水を飾り、皆様をおもてなしするイベント。富岡八幡宮、深川不動堂、永代寺の寺社仏閣のほか、観光案内所、飲食店や土産物店など12店舗の軒先に、色とりどりの花手水を設置。個性豊かな花手水がまちを彩ります。2023.5/19~5/28 深川花手水の色とりどりの写真は、深川花手水 2023 -春-」 へ。

石造燈明台(江東区冨岡 深川公園)


石造燈明台

<江東区指定有形文化財(建造物) >

日清戦争(1894~95)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられた。明治28年12月に起工し、31年7月に竣工した。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部は煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られている。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の一人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年竣工)が現存する。外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた九世市川団十郎、五世尾上菊五郎、初世市川左団次 をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊廓や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえる。竣工当初は上部に八角の火袋があったが関東大震災により倒壊した。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年に現在地に移設された。江東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

深川不動堂(江東区冨岡)


深川不動尊

由来:深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878)当地に遷座され、同14年、堂宇が建立された。元禄(1688~1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳された。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。~下記案内板より抜粋転載~

境内案内

深川不動堂HPより転載

「手水舎」

深川花手水の色とりどりの写真は、

深川花手水 2023 -春-」 へ。

手水鉢に花々を浮かべ彩り豊かに!

「深川龍神」

境内を入って左側に深川龍神がある。我が国では、龍神は農耕儀礼との結びつきが深く、水を司る神として古来より多くの人々に崇められてきた。龍神の霊験は顕著で、農業や水産業が豊かになることを祈り当堂へ勧請された。水鉢に「龍神願い札」を浮かべてご祈願すると御札は水に溶け、願い事が龍神の許に届くといわれている。~深川不動堂HPより抜粋転載~

「本堂」

開創310年記念事業として建立された新しい本堂。ご本尊ならびに両童子、四大明王はご遷座され、毎日のお護摩修行もこちらで行われている。外壁はお不動様のご真言に包まれた「真言梵字壁」で、仏の力に守護された空間となっている。~深川不動堂HPより抜粋転載~

上記写真:清水建設HPより転載

お不動様のご真言に包まれた

「真言梵字壁」

「旧本堂」

<区指定登録文化財>

平成23年4月までの本堂。関東大震災と第二次世界大戦によりそれまでの本堂が焼失してしまったため、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺の地蔵堂を昭和26年に移築。現在は江東区の指定登録文化財となっており、区内最古の木造建築といわれます。~深川不動堂HPより抜粋転載~

「わらじ守り掛け」

足腰の息災を願うお守り「わらじ守り」。わらじ守りの絵馬に願い事を書き、大きなわらじに掛ける。

「おねがい不動尊」

ご用材に熊本県天草に自生していた樹齢五百年を超える楠の霊木を使用した、身の丈1丈8尺からなる国内最大級の木造不動尊像。~深川不動堂HPより抜粋転載~

「慈恩如来」(お釈迦さま)

お釈迦さまは、生きとし生けるものすべてを救いたいと願う慈しみの心から生涯に亘り仏教の教えを説き、私たちに計り知れない多くの 恩恵を授けてくれました。釈迦如来像を心や病の苦しみを取り除く「慈恩如来」と称し、尊像に 身体健全・病気平癒など悩みのある所と同じ場所に「健康願箔」を貼り、真言を唱えながら祈願すると悩みを取り除いてくれます。

当如来像は、タイ王国で最も古い寺院に祀られ、それはアユタヤ朝時代を表現されています。平成8年に同国政府並びに芸術文化省の許可を得てご遷座されました。~下記案内板より転載~

「開運出世稲荷」

境内に入るとすぐ右側に、総檜造り檜皮葺きの社殿。こちらでは成田山新勝寺境内に御座す「成田山開運出世稲荷」のご分霊を勧請奉祀している。開運成就のご利益があるとされ、社殿の周囲にはご信徒によって奉献されたのぼり幡がはためく。毎年2月15日には例大祭、9月15日には開創記念大祭が盛大に執り行われる。~深川不動堂HPより抜粋転載~

願掛けきつね

富岡八幡宮(江東区富岡)


富岡八幡宮は、寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得た。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念された。~富岡八幡宮HPより抜粋転載~

境内案内図

「大鳥居」

「御本殿」

「手水舎」

深川花手水の色とりどりの写真は、

深川花手水 2023 -春-」 へ。

「伊能忠敬像」

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳の時に江戸に出て、富岡八幡宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。約200年前の寛政二年閏4月19日(陽暦では1800年6月1日)の早朝に富岡八幡宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿などの測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊納測量にとって大変縁の深い場所であります。

伊納測量開始200年にあたり「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。 伊能忠敬銅像建立実行委員会 ~下記案内板より転載~

- 相撲と富岡八幡宮 -

当宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまるが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていた。その後禁令が緩み、貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許される。その地こそが当宮の境内だった。以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立された。そののち本場所は、本所回向院に移っていくが、その基礎は当宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになる。~富岡八幡宮HPより抜粋転載~

「横綱力士碑」

明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。この碑には初代明石志賀之助から72代稀勢の里関までの四股名が刻まれているが、その大きさは高さ3.5m、幅3m、重量は20tに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑。新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納される。また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っている。~富岡八幡宮HPより抜粋転載~

上記写真:富岡八幡宮HPより転載

「大関力士碑」

当宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(本殿に向かって右側の奥)が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには入らなかった看板大関を除く)昭和58年に建てられた碑で、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用している。~下記案内板より抜粋転載~

「釈迦ヶ嶽等身碑」

この等身碑は、身長丈七尺五寸(226cm)の巨人力士として活躍した釈迦ヶ嶽雲右衛門の十三回忌追善として、天明七年(1787)に建立された。釈迦ヶ嶽はがあった寛延二年(1749)出雲国(島根県)に出生し、松平家のお抱え力士として大阪で初土俵。明和七年(1770)には江戸に進出し、江戸在場所中の成績は二三勝三敗二分という高い勝率を残しましたが、惜しくも安永四年(1775)、二十七歳の若さで逝去した。~下記案内板より抜粋転載~

「巨人力士身長碑」

永代寺(江東区富岡)


寛永四年(1627)、富岡八幡宮別当として長盛上人により永代寺は永代島に創建された。当時の永代島は隅田川河口にあった六万五〇八坪の砂州で、その内、二万二一九三坪が寺社地であった。成田不動尊などの出開帳が多くあり、江戸六地蔵の最後の一体が深川地蔵坊正元の勧進により永代寺に造立された(明治元年に壊される)。明治元年(1868)の神仏分離令を契機にすすめられた廃仏毀釈により、永代寺は廃寺となり、明治二九年、永代寺塔頭であった吉祥院が永代寺の名称を継ぎ、現在にいたるという。~「高野山真言宗大栄山永代寺縁起」より~

「絹本着色地蔵菩薩半跏像」

<区指定有形文化財(絵画)>

地蔵善薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したもの。本紙は縦84.0cm、横37.0cm。表装は縦178.8cm、横56.0cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っている。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっている。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されている。地蔵信仰は奈良時代未ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきた。鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を特つ。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(14世紀)の製作と考えられる。本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという殄しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえる。江東区教育委員会 ~下記案内板より抜粋転載~

「地蔵堂」

「手水舎」

深川花手水の色とりどりの写真は、

深川花手水 2023 -春-」 へ。

木場公園


木場は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給し「材木のまち」として栄えてきた。昭和44年には、江東再開発構想のなかの防災拠点の一つとして位置づけられ、木材関連業者が現在の新木場へ移転したのを機に、水と緑の森林公園として整備された。また、昭和52年には、昭和天皇御在位五十年記念公園として国から指定を受けた。公園は、葛西橋通り、仙台堀川によって南、中、北の3地区に分けられており、木場公園大橋が各地区を連絡している。~公園へ行こうHPより抜粋転載~

2月28日に大横川河津桜を見に訪れています。 木場公園&大横川河津桜(Feb.2023)へ。

「木場公園大橋」

木場公園の三つの地区を連結するこの橋は、まさにこの公園のシンボル。繊細かつダイナミックな造形で周辺環境との美しい調和を図っている。全長250m、主塔の高さ60mの斜張橋で、落橋防止対策など最新の土木技術が注がれている。

仙台堀川公園・横十間川親水公園


「仙台堀川公園」:「区民の森」をテーマに整備した、延長3.7km、面積10.4ha、都内最大の親水公園。ふれあいの森、果実の森、科学の森、親子の森などの特色ある7つの森や、桜並木が続き、春の桜や新緑、夏から秋の果実や紅葉など、四季折々に目を楽しませてくれる。その他にも、釣堀、池、川遊びの出来る親水施設、陶壁や彫像などの芸術作品もあり、豊かな自然と文化の香りがとけあい、緑の下での散策には最適な公園。

「横十間川親水公園」:「区民の水辺」をテーマに整備した、延長1.9km、面積5.1ha。洪水防止のため、昭和51年に扇橋閘門(おうぎばしこうもん)が設置され、横十間川が水位が下がったことから川の一部を埋め立て、昭和59年4月1日に親水公園として開園。小名木川クローバー橋から大横川に合流する地点までの区間に整備されているのが横十間川親水公園。「水辺」に象徴されるように、広い水面を活かした貸しボート場や水上アスレチック、野鳥の島、また花菖蒲園や田んぼのある「生物の楽園」などがある。~江東区HPより抜粋転載~ 

旧石住橋の入口からスタート!!

観光高札「深川洲崎十万坪」

十万坪とは、現在の千石、石島、千田、海辺、扇橋のあたりです。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」には、

深川の名所として、描かれている。十万坪は、元禄14年(1701)に木場などの築地が完成した後に埋め立てが始まり、西との境には大横川が伸びて小名木川以南を「亥ノ堀川」とも呼ばれるようになった。当地は享保年間(1716~36)に近江屋庄兵衛らにより開墾されて庄兵衛の名字から千田新田と名付けられる。寛政8年(1796)には一橋家の抱地となった。浮世絵は、葭や薄の生い茂る茫々たる様子を描いている。浮かぶ桶を狙って大鷲が今にも急下降する場面。桶には何があるのか、なぜ大鷲なのか興味がつきません。江東区 ~下記案内板より抜粋転載~

「 やすらぎの滝」

「はなみずき橋」

「古代の森」の埴輪

「つばき橋」

「千田橋」

「浮橋」

アオサギ(?)

江東区HPより転載

「野鳥の島」

「ボート乗場」

「千砂橋」

「海砂橋」

「三島橋」

「水門橋」

「クローバー橋」

猿江神社(江東区猿江)


源頼義・義家父子の奥州遠征(前九年の役・後三年の役)において武勇の士と讃えられた家臣「猿藤太」(さるのとうた)が、此の地の入り江で力尽き亡くなった。これを知った地元の漁師達が当社の境内に塚を建て手厚く葬り、此れに因んで、猿藤太の「猿」と入り江の「江」の字を取り結び「猿江」の社名となったとされる。創立年代は不詳であるが、康平年中(1058)境内地三百余坪を有した稲荷社として近在の信仰を集めていた。本殿は旧社殿が関東大震災で焼失後、宮内庁設計技官「小川猪作」氏により都内では最古の鉄筋コンクリート造りの頑丈優美な社殿として昭和6年に再建された。このため大東亜戦争の東京大空襲にて深川一帯が灰燼に帰した時も奇跡的に難を免れ、錦糸町の駅からは一面の焼け野原にこの御社殿のみが望めたという。昭和21年に伊勢大御神を合祀し「猿江稲荷神社」より社名を改称。「稲荷神社」の社号碑は此れを今に伝える。又、当時は荒川沿い東大島近在までの氏子地域を有した。古くより深川を見守る一千年余の歴史がある由緒深き神社である。

御祭神:天照大御神・宇迦之御魂神 境内社:馬頭観音社・藤森稲荷社・北向稲荷社 ~下記案内板より抜粋転載~

「鳥居」

「稲荷神社」の社号碑

「社殿」

「神猿像」(まさるぞう)

「魔が去る」といわれ、

開運や運気上昇、厄除に御利益があるとのこと。

「手水舎」

「藤森稲荷神社」

「神狐像」

社殿の右手に「神狐像」